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No.335

歴史展示室

江戸時代の福岡住宅事情

平成21年2月24日(火)~平成21年4月19日(日)

はじめに
 「衣食住」は人が生活していく上で最低限必要とされるものです。言うまでもなく、「衣」は寒さや暑さから身を守るための衣服、「食」は生命を維持するための食事、「住」は風雨や外敵から身を守るための住居のことをそれぞれ意味します。今回は特にその中の「住(住宅・居住)」に注目し、江戸時代の福岡を舞台として、その歴史を紹介します。

一、住環境を比べる
 現代では、街の開発は、人々の暮らしやすさを実現するために、都市計画法や建築基準法に基づいて行われます。しかし江戸時代は、領主の主導のもと、軍事的性格を第一とする城下町が領民らを強制的に動員して建設されました。そのため、軍事物資を扱う商人・職人の屋敷を武家地の近くに置いたり、兵站(へいたん)基地となりうる寺院を城下町を囲むように移転したりと、その役割ごとに居住地を決めていました。福岡藩の場合は、東に町人が住む町「博多」が、西に新たに建設された武士の町「福岡」が、那珂川(なかがわ)を挟んでまるで別々の町のように配置されました。
 では、この福岡城下にはどれ程の人々が生活していたのでしょうか。まず、博多を例にとると、元禄(げんろく)3(1690)年では家数3,118軒で、人口は19,468人とあります(「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」)。これが現代(平成21年1月末)になると、旧博多部に該当する町の世帯数は11,292で、人口は17,383人です。人口は微減ですが、世帯数(家数)に関してはおよそ3倍に跳ね上がっています。一世帯平均の人数で見ると6人→1.5人という変化になります。
 一方、武士が多く住んだ福岡は、明治初年の記録から推計すると、福岡とその周辺(西新(にしじん)・鳥飼(とりかい)・警固(けご)・薬院(やくいん)・春吉(はるよし)など)には16,000人余りの武士とその家族が住んでいたようです(「福岡県地理全誌」)。福岡は武士以外の人口が15,000人余りでしたので、合わせて30,000程の人々が那珂川の西から室見川(むろみがわ)の東の範囲に住んでいたことになります。現在ではこの地域の人口は100,000人以上になっているので、江戸時代と比べると人口は3倍以上に増加しています。ただし、こちらも現在の一世帯当たりの平均人数は2人と少なく、博多部と同じような状況です。
 また、住宅の建て方についての最近の調査によれば、福岡市では65%の人がマンションやアパートといった共同住宅で生活しているそうです(平成17年度国勢調査)。福岡城を除いて1、2階建ての木造住宅がほとんどだった江戸時代から比べれば大きな変化です。

二、屋敷にまつわるルール
 武士の屋敷は基本的には藩主(はんしゅ)から与えられる拝領(はいりょう)屋敷でした。屋敷替えを命じられることも多く、長く同じ場所に住む武士はまれでした。屋敷は禄高(ろくだか)によって規模や立地が異なり、家老(かろう)クラスは福岡城内、上級家臣は現在の大名(だいみょう)や天神(てんじん)周辺、中級家臣は荒戸(あらと)周辺など、下級家臣は地行(じぎょう)、谷(たに)、春吉といった城下の周縁部に屋敷が置かれました。拝領屋敷は自分の財産ではないので、引越の際には畳の数から庭木の本数まで書き上げて次の住人へ引き渡しました。また、ちょっとした建て替えや修理についても藩から許可を得た上で取り掛からねばなりませんでした。
 一方、武士が町人地を買い上げて自分の屋敷とすることもあり、これらは抱屋敷(かかえやしき)あるいは自分屋敷(じぶんやしき)と呼びました。上級家臣の中には海の見える場所に別宅を設けたりする者もいました。
 町人の場合、福岡・博多は地子(じし:土地にかかる税金)は免除されていましたが、屋敷の表間口(おもてまぐち)に応じて様々な役目を負わされていました。町人屋敷が表が狭く奧に長いのは、狭い場所に多くの家を並べるためというのも勿論(もちろん)ですが、右のような税事情も関係してたと思われます。こうした屋敷を所有し、税負担をするのがいわゆる正式な町人です。しかし、江戸時代中期になると、町人の貧富の差が広がり、屋敷を手放す者と多くの屋敷を持つ者が現れてきます。その結果、借屋層(しゃくやそう)が増加し、町の表から見えない場所には裏長屋(うらながや)が作られるようになりました。享保の飢饉(きょうほうのききん)後には周辺の村々からの流入もあり、その傾向は加速しました。藩は税負担の方法を変えるなど様々な手を打ちますが、以前のような状況に戻ることはありませんでした。
 他方、農村はというと、屋敷については主に倹約令(けんやくれい)との関わりに注目する必要があります。城下町は人目に触れる場所であるため、屋敷を清潔且つ立派に保つことが求められました。福岡のメインストリートの六丁筋(ろくちょうすじ)で白壁(しらかべ)、瓦葺(かわらぶき)が奨励されたのがその一例です(「町役所定 一」)。しかし、農村は違います。藩は農民が屋敷にお金をかけることを贅沢(ぜいたく)と考え、しばしば倹約令の中で屋敷に関する規制をかけています。例えば、明和(めいわ)6(1769)年には、農村と漁村に対して「書院床(しょいんどこ)」「塗縁戸障子(ぬりぶちとしょうじ)」「長押(なげし)」等の新規製作禁止を命じています(「郡方合帳」)。材木の利用についても規制は多く、町方とはまた違った状況に置かれていました。

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