平成21年4月7日(火)~平成21年6月28日(日)
平安時代の福岡 和魂漢才
平安時代の福岡は、大陸に近いという地理的な条件から中国や朝鮮文化の窓口として、大きな役割を果たしてきました。そのときに移入された文化は、大陸から渡って来た人々や国家から遣わされた使節たちによって伝わり、国情に見合ったものへと形を変えていきました。日本固有の精神と中国から来た学問を融合することを和魂漢才といいますが、中国伝来の体系化された知識や技術から成る学問をそのまま受け入れるのではなく、取捨選択し模倣から脱して独自のものを作り上げてきました。その過程を福岡で出土した考古資料から見ていきます。
中国との本格的な貿易は平安時代初めに大宰府鴻臚館を拠点として始まりました。9世紀後半以降、唐や新羅からの貿易商人の来航が増え、博多津の鴻臚館は外交施設から交易の場としての性格を強めていきました。唐の滅亡から北宋の建国までの五代十国時代(907~960)には、引き続き十国の一つとして華南に興った地方政権呉越(ごえつ)国から商人が来航しています。呉越国の領域には、高級青磁を生産していた越州窯(えっしゅうよう)が含まれます。ほかに、青磁とともに呉越国から日本に伝えられた仏教文物として、今津誓願寺など数例が知られる銭弘俶(せんこうしゅく)八万四千塔といわれる金属製小塔があります。北宋建国以降には、「大宋国商客」や「宋商」の来航記事が頻繁に出てきます。
銭弘俶八万四千塔(誓願寺蔵) |
遣唐使の廃止後大陸文化の影響がなくなり国風文化が栄えたとされていましたが、外国商人の来航は頻繁なものとなっており、文化的にも多大な影響を受けたと思われます。平安朝の貴族たちは中国に対して並々ならぬ憧れを抱き、鴻臚館を通して高価な中国陶磁器、絹織物、書籍などの品々を珍重しました。その仲介者として9世紀後半から11世紀前半まで大宰府に唐物使(からもののつかい)といわれる官人が派遣されました。唐物使は外国の商人がもたらした唐物(貨物)を民間に先がけて買い上げ、選りすぐりの高価な品々を宮中や貴族たちのもとへ届け、のこりは民間で取引されました。
平安時代後期、11世紀後半以降は拠点が博多に移り、居留する宋商人により民間主導で交易活動は一層活発に展開されました。
越州窯青磁の流入と影響
越州窯青磁は中国浙江省慈渓(じけい)市の上林湖(じょうりんこ)周辺の青磁を生産した窯の総称で、唐時代後期・五代十国時代に盛期を迎かえ、日本へも輸出されました。唐時代後期の越州窯青磁は、無文が主体で、碗は幅広で低い蛇(じゃ)の目(め)高台を底部に削り出し、体部が直線的に開く特徴をもっています。9世紀に入ると碗・皿の口縁部に切れ込みを入れた輪花(りんか)の装飾を施すようになります。水注は胴部を瓜形にするものが現われます。唐が滅亡し五代十国に入ると国王銭氏の庇護の下高級青磁が大量に生産されるようになります。これまでは無文が主でしたが、線彫りの文様をもったものが現われます。北宋に入って、太平興国3年(978)国王銭弘俶は北宋に降伏し、大量の青磁を献上しています。銭氏の庇護から離れても、衰退の一途をたどるどころか、さらに洗練された青磁が生産されるようになりました。線彫りに加え、ヘラ彫り、透かし彫りなどの文様が刻まれることが流行りました。
越州窯青磁は東南アジアから西アジア、さらには遠くアフリカまで輸出されています。日本においては京、地方の寺院や官衙遺跡から広く出土しています。地理的に大陸に近く、貿易の窓口として繁栄した北部九州、特に大宰府鴻臚館での出土量は群を抜くものです。鴻臚館跡からは高級な精製の越州窯青磁以外に粗製の青磁が数多く出土しています。粗製の青磁は北部九州で広くみられるのに対し、京を始め畿内ではみられません。粗悪な青磁は唐物使らの目に適うものではありませんでした。
製品の流入だけでなく、日本国内の窯業生産にも影響を与えています。東区多々良込田(たたらこめだ)遺跡で出土した長門産の緑釉二彩手付水注は、唐時代後期の越州窯青磁水注を祖形とするものです。