平成21年4月7日(火)~平成21年6月28日(日)
白磁の時代から再び青磁の時代へ
平安時代後期、11世紀後半から12世紀前半にかけて博多居留の宋商人により交易活動は一層活発に展開されました。輸入された主となる碗や皿などの陶磁器は越州窯青磁から現在の福建省や広東省などの華南地方産の白磁へと変わり、その量も爆発的に増大し、福岡でその時期の遺跡を発掘調査すればほぼ必ず中国陶磁が出土します。積み降ろし港であった博多では、積載の段階で壊れて大量に廃棄された陶磁器が見つかっています。長治2年(1102)に大宋国泉州人李充の船が博多津に来着した際大宰府の官人が臨検した文書(「朝野群載」所載の警固所解(けごしょのげ))には、李充が所持する明州の両浙路市舶司で発行した公憑(ビザ)中に積載された貨物として「象嵌肆拾疋、生絹拾疋、白綾貮拾疋、瓷垸貮佰床、瓷堞壹百床」が記されています。瓷垸、瓷堞は白磁碗、白磁皿とみられます。この時期、博多ではいち早く茶器である黒釉陶器碗、天目碗が出現しています。京や鎌倉の寺院などで一般化するより百年以上早い出現です。居留の宋人たちの喫茶の風習によるものでしょうが、この時代に広くは浸透しませんでした。また、横に取っ手が付いた急須が入ってきています。薬材を煎じるためのものでしょうが、日本で一般化するのは江戸時代に入ってからです。博多居留の宋人に限られた風習で、日本ですぐには受け入れられませんでした。
平安時代末期、12世紀後半から、華南産白磁が主体であった碗皿類は浙江省龍泉窯や福建省同安窯周辺で生産された青磁に変わります。その量はおびただしいのですが、前段階の白磁のように爆発的に出土する訳ではありません。
田川市弓削田出土和鏡 |
唐式鏡から和鏡へ
平安時代初め、9世紀初頭までは、唐式鏡の時代とされます。唐式鏡は広義には、舶載された唐鏡、それを踏み返し鋳造した鏡、日本で唐鏡を模した原型から鋳造した鏡などを指します。一般的には鏡の鋳造は蝋で作った原型を粘土で包み焼き締めた型に溶けた銅を流し込むのですが、踏み返しの場合完成品の鏡を粘土に押し当てた後焼き締めて型を作っています。
平安時代になって、奈良時代に舶載された数種類の唐式鏡のうち取捨選択され、意匠(デザイン)の上で唐花双鸞鏡(からはなそうらんきょう)、構図の上で回旋的表現が受け入れられます。外形が八稜、上下の唐花が瑞花(ずいか)、左右の鸞が鳳凰に置きかわった瑞花双鳳八稜鏡が現われます。10世紀末から11世紀初頭は、鏡は小型化し全国での出土例が飛躍的に増加しています。これまでの祭祀的な用途から実用的なものへと転換したことが考えられます。
瑞花双鳳八稜鏡は、さらに瑞花が松・梅・菊・秋草・水草へ、また鳳凰も鶴・尾長鳥・雀など日本の自然風物の中にもみられる写実的な花鳥に置きかわり、平安時代末、12世紀に入ると、鏡の文様は中国の模倣から影響を受けつつ和風化した「和鏡」が成立します。これらの絵画表現は宋代の花鳥画にもみられ一概に和風化したものとはいえませんが、花形の鈕座、高く直立した周縁に界圏がめぐるといった特徴は日本独自のものです。型となる粘土に直接ヘラで押して文様を描いています。瑞花鴛鴦五花鏡から無界圏・素紐で断面が蒲鉾形周縁を持つ宋式の円鏡を経て草花双鳥文などを主な文様とする細縁の円鏡へと変遷の流れを追うことができます。
この時期以降、日宋貿易が一段と活発化し、中国からは大量の陶磁器とともに湖州鏡が多く輸入されています。浙江省湖州を中心として製造された鏡で、鏡背に「湖州」や工房名と品質保証の言辞などを鋳出す他はほとんど無文です。
ガラス製品
博多遺跡群では、縦方向に把手が付いた無釉の陶器壷の内面、及び破面にガラスが溶着したものが多く出土しています。陶器を坩堝(るつぼ)(溶解したガラスの容器)として用いたものです。他に未製品も多く出土しており、ガラス製品の製作が行われていたことを示す資料です。中世の博多からはガラス製品として玉類の他、壷・瓶・皿などの小型容器が出土しています。吹きガラスの技法により成形され、成分分析から中国産とみられています。高級品として少数が輸入され、量産され大量に輸入された陶磁器のようには日本には流入しませんでした。また、輸入されたガラス素材や破損したガラス製品を材料として、加工だけ行ったことも想定されます。博多遺跡群で出土したガラス製品の内数点や坩堝に溶着したガラスを蛍光X線分析した結果、宋代に開発されたとされる、鉛とアルカリを融剤に用いたカリウム鉛ガラスに同定されました。鉛同位対比分析では、対馬産と中国産とがあることが確認されています。坩堝に溶着したガラスの数値は対州鉱山産の鉛の値の同位体に非常に近いのに対し、ガラス容器小壷の鉛の同位体比は中国後漢鏡の鉛の範囲に入ることから、中国からの輸入品の可能性が指摘されています。平安時代に北部九州で見られるガラス製品には弥生や古墳時代の墳墓のように装身具を被葬者に着装した例がなく、経筒の宝塔の屋根に見立てた蓋の垂飾りに付けられたガラス玉の他、都市遺跡から単発的に出土したものを見る程度に限られます。京では寺院の荘厳や仏像の装身に用いられた垂飾りなどガラス玉を用いた例や小型容器が伝わっています。平安時代のガラス製品といえばガラス玉が代表的なもので、資料の絶対数が少なく様相がはっきりしていません。
(佐藤一郎)