平成21年6月23日(火)~7月26日(日)
はじめに
考古学の研究対象となる資料は、「遺物」と「遺構」の二つに大別することができます。「遺物」とは、私たちが博物館の展示でよく見かける、土器や石器、骨格器や鉄器といった昔の人々が作り出した「もの」です。これらの遺物は歴史を物語るものとして博物館などでよく展示されているものです。
これに対して、「遺構」は建物の跡や墓・古墳、水田や畑といった、人々が地面に刻み込んだ痕跡や地面の上に構築した建造物を指します。大地と一体化したこれらの遺構を動かして、博物館で展示することは非現実的なことと考えられ、高いコストと手間がかかるものでした。
しかし、近年の保存技術の進歩は、遺構の形をそのまま型取って「遺構のレプリカ」を作り、展示することを可能にしました。この技術によって、これまでは発掘現場でしか見ることができなかった遺構の形や大きさを、遺跡から遠く離れた博物館の室内で見学し、体感することが可能となりました。
「遺構のレプリカ」は単なる「実物大の模型」ではなく、実際の遺構を型取りして、表面を剥ぎ取り、復元したものです。その特徴は遺構の細かい凹凸や火を焚いた痕跡、炭や鉄分などの付着物まで再現できることで、写真や図面からは見えてこない様々な情報をそのままの状態で保存することができます。
今回の展示資料はすべて市内の遺跡で製作されたもので、現在は福岡市埋蔵文化財センターで所蔵されています。今回の展示は、このような遺構レプリカの技術を紹介し、その成果を公開するものです。
広瀬遺跡の土器焼成遺構 (1次調査SK-11) |
鴻臚館跡の瓦敷き遺構 (17次調査 SX1078) |
1.広瀬遺跡の土器焼成遺構
広瀬遺跡は早良区内野にある縄文時代と中世の二つの時代の複合遺跡で、室見川東岸の段丘の上にあります。
平成15年の発掘調査で出土した土器焼成遺構は、浅い皿のような形の穴で、底に防湿材として砕いた焼土を敷いています。この上に土器を置き、上を灰や草で覆って土器を焼く、いわゆる「覆い焼き」の窯だったと考えられます。出土したときには床一面が熱を受けて暗い褐色に変色し、炭が一面に付着していました。この遺構で土師器と呼ばれる赤褐色の日常土器を作っていたと考えられています。
2.鴻臚館の瓦敷き遺構
鴻臚館は奈良時代から平安時代にかけて外交・通商の玄関口だった施設です。かつて平和台球場があった一帯に鴻臚館の建物が広がっていたと考えられています。昭和62年に発掘調査が開始されてから20年以上にわたって発掘調査が継続されています。
この瓦が敷かれた遺構は、平成11年度の鴻臚館跡17次調査で確認されたもので、鴻臚館の北館と南館を隔てる谷の先端部分にあり、鴻臚館の遺構のなかでも特殊なものです。遺構は南北の長方形の浅い穴に同じ大きさの瓦の破片を、南側が上に、北側が下になるようにきれいに重ねて並べています。
この遺構の機能や目的はよくわかりませんが、北館と南館を結ぶ通路がこの場所にあったことから、通路の一部か、土留めの役割があったと考えられています。なお、この遺構は型取り後、埋め戻されて現地に保存されています。