平成21年6月30日(火)~10月4日(日)
銅剣の国産化
日本で銅剣が作られ始めるのは弥生時代中期初頭のことで、朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作は始まります。当初、製作拠点は有明海沿岸から玄界灘沿岸にかけての地域に集中していて、福岡市内では、志賀島の勝馬で細形銅剣の鋳型が出土しています。
やがて、朝鮮半島の細形銅剣とは異なる独自の形態に発展し、銅剣の使い方が武器から祭器に変化するにつれて本来の銅剣とは全く異なる形へ変化します。福岡市東区八田で出土したと伝えられる銅剣鋳型は中広形で、細形銅剣よりも長く幅広くなっています。
このように国内で生産が開始された銅剣ですが、大量生産は無理だったようで、ムラやクニの指導者達しか入手できない貴重なものでした。したがって銅剣は実際に戦場で使うものではなく、身分や権力を表示するためのものになっていたとみられます。
一方、このように製作段階で形態が変化するだけではなく、使用することで形が変わっていくこともあります。刃を何度も研いだために剣身が極端に細くなっていたり、柄を固定するために茎に目釘穴を開けたりした銅剣は、使用した人の独自の工夫の結果と言えそうです。
銅剣から鉄剣・鉄刀へ
銅剣をはじめとする青銅武器は弥生時代を象徴する青銅器ですが、弥生中期中頃からは鉄器も普及します。中期後半以降、青銅器が祭器へ変化すると入れ替わるように鉄製の武器が出現します。
鉄剣・鉄刀は鉄製武器の中で最も早く導入され、鉄製の戈・矛・鏃とともに普及していきます。鉄剣には柄をつけるための目釘穴が開けられたものもあり、細形銅剣と同じように柄をつけて使われたと考えられます。
鉄刀は柄の頭に輪がついたや素環頭大刀(そかんとうた)や素環頭刀子(とうす)が弥生時代中期に中国(漢)から入ってきました。素環頭大刀は漢では歩兵の武器として使用されていました。この素環頭の刀は大きさに応じて使用目的が異なり、工具・書刀(しょとう)としての素環頭刀子と、武器としての素環頭大刀に大別できます。これら弥生時代の素環頭刀は北部九州を中心に分布しています。
これらの鉄剣・鉄刀は青銅武器と同じく、多くが副葬品として出土します。鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だったとみられます。吉武樋渡62号甕棺墓から出土した素環頭刀子は小型の前漢鏡とセットになっていて、刀の流入の背後に中国との関係が伺えます。その後の吉武樋渡の5号甕棺墓と1号木棺墓からも鉄剣が出土していて、継続的に鉄剣・鉄刀が流入していたことがわかります。
元岡・石ヶ元8号墳出土単鳳環頭大刀 |
最後に——剣・刀の力
剣・刀はもともと接近戦用の武器で、常時佩用(はいよう)することの多い武器でした。そのため古来より戦闘機能以外の目的が付加されることが少なくありませんでした。特に、装飾的な要素を強め、所持している人の権威を高めるような働きが時代とともに強くなりました。古墳時代になると環頭に龍や鳳凰(ほうおう)などの装飾を加え、柄や鐔(つば)に象眼(ぞうがん)や透(す)かしを施して装飾性を高めた剣も普及しました。また柄や柄頭の形態が発展し、日本独自の外装を加えた刀も登場しました。
このように装飾を加えられた刀は、儀仗刀として使用されるようになりました。そうして刀は本来の武器としての役割を超えた存在として、その後長い期間にわたって日本人に大きな影響を与えたのです。
(大塚紀宜)