平成21年7月22日(水)~10月4日(日)
1.はじまりの古墳 -5世紀前半-
城田2次1号墳出土 線彫式獣帯鏡 |
古墳時代がはじまった頃、室見川(むろみがわ)左岸の日向(ひなた)川と竜谷(りゅうこく)川に挟まれたこの場所には古墳も集落もありませんでした。飯盛山(いいもりやま)を隔てた西側の今宿古墳群に古墳時代前期から前方後円墳が築造されたのとは対照的です。
ここに古墳がはじめて築かれたのは、古墳時代中期になってからです。室見川沿いの微高地上に帆立貝式(ほたてがいしき)古墳(吉武S1号墳)と方墳(吉武S2号墳)が作られました。1号墳は5世紀前半の早良(さわら)平野では最も大きな古墳で、早良平野一番の有力者の墓だったと考えられます。ほぼ同じ頃、竜谷川沿い台地上の金武城田遺跡でも円墳(城田2次1号墳)が作られました。古墳の規模は小さいですが、中国で魏~晋の時代に作られた鏡が出土しており、稀少な海外からの文物を入手できる人の古墳だったとみられます。
これら5世紀前半の古墳が、最終的に百数十基を超える古墳が築造された、金武・吉武地区の古墳群の端緒となったのです。
2.やってきた鉄と馬と新しい文化 -5世紀中頃~6世紀前半-
吉武遺跡群出土 木製模造船(複製品) |
竜谷川沿いは城田2次1号墳以降、古墳が築造されなくなりますが、吉武S1号墳群の周辺では継続して古墳群や集落が営まれています。吉武遺跡群の生活遺構や古墳から、韓半島南部からやってきた陶質(とうしつ)土器・軟質(なんしつ)土器・鉄器などが出土しています。また、馬具の出土から、馬がこの時代の吉武遺跡群にいたことが分かっています。鉄器は輸入するだけでなく、自らも製鉄を行っていたようで、金武古墳群や浦江古墳群から、製鉄の際に生じる鉄滓(てっさい)を副葬品として供えた古墳がみつかっています。鉄滓を古墳に供える行為は、ごく一部の地域に限定されるもので、こうした古墳の被葬者は製鉄に関わる人たちだったとする説が有力です。
新しい形のうつわや、製鉄と鉄器の使用、乗馬や馬耕はそれまでの暮らしを大きく替えるものでした。この新しい文化は古墳時代後期以降、全国に広がっていきますが、吉武遺跡群ではいち早くそれを受け入れていたのです。
吉武S9号墳出土 金銅装龍文環頭大刀 |
龍文大刀実測図 |
3.室見が丘の古墳群、誕生 -6世紀中頃~後半-
竜谷川沿いの浦江古墳群では6世紀前半から古墳が築造され始め、6世紀の中頃~後半に彩色壁画古墳である浦江1号墳がつくられます。浦江1号墳はこの時期の早良平野最大の古墳で、早良平野一番の有力者の古墳と見られます。浦江1号墳築造以降は浦江古墳群だけでなく、日向川上流にも古墳が多く造られました。彩色壁画古墳である吉武K7号墳もこの時期に日向川上流に築かれましたが、規模は周辺の古墳と変わらないものでした。
韓半島からの輸入土器は当時の政治状況を反映して、新羅(しらぎ)の土器が出土するようになります。有力者の古墳は吉武遺跡群周辺から浦江遺跡群周辺へと移動しましたが、韓半島からの輸入品が出土するという地域性はなお継続したようです。