平成21年7月28日(火)~9月27日(日)
崇福寺 山門は福岡城から移築したもの |
29 打敷 宝厳院法要所用(部分) |
3.かざる
崇福寺には、黒田家の法要の際に荘厳具として用いられた染織品が数多く残っています。荘厳とは、みほとけなどの礼拝する対象を安置する空間を美しく飾り立てることを言い、そのための仏具のことを、とくに荘厳具と呼んでいます。金工品、漆工品もありますが、美しい色彩と文様をもつ染織品もまた、堂内の厳かな雰囲気を醸し出すのに、大きな役割を果たしています。
崇福寺に伝来した荘厳具は、そのほとんどの裏面に、誰の、どの法要の際に作られたものかを示す墨書があります。墨書に見える年号のうち、最も古いものは、貞享(じょうきょう)3年(1686)で、宝厳院(ほうごんいん)のために寄進された打敷(うちしき)(29)の裏に記されています。打敷とは、仏像や位牌を安置する須弥壇(しゅみだん)や、須弥壇の前に置く前机などに敷く荘厳具のこと。宝厳院は、まさにこの年に没した三代藩主・黒田光之の娘のことです。彼女は、黒田家から前橋藩主・酒井忠挙(さかいただたか)に嫁ぎ、一男二女をもうけ、亡くなったときは38歳でした。さて、打敷の墨書には、「京極備中守内室」という寄進者の名も挙げられています。この人物は、宝厳院の娘(すなわち光之の孫)の一人で、丸亀藩主・京極高豊(きょうごくたかとよ)に嫁いだ市子のことです。つまり、この打敷は、酒井家に生まれ京極家に嫁いだ市子が、亡き母の実家・黒田家が営んだ法要に際し、寄進したものだと考えられます。母と娘の絆を伝える打敷なのです。
崇福寺に伝来した染織品の中で、もう一種類、黒田家の女性たちの存在を感じさせるものがあります。それは、小袖(こそで)のハギレ(42)です。小袖とは、現在のキモノの古い呼び方です。江戸時代には、亡くなった人の小袖が寺院に奉納され、法衣(ほうえ)や打敷、幡(ばん)などの荘厳具に仕立て直されることがよくありました。崇福寺に伝わった小袖のハギレも、何かに仕立て替えようと納められたものの一部でしょう。いずれも茶の平織(ひらおり)の絹に、鶴と松竹梅の文様や、縁起のよい器物からなる宝尽(たからづくし)文様を、生地(きじ)表面を埋め尽くすように刺繍しています。こうした意匠は、身分の高い武家女性が夏季に用いる礼装の小袖に特有のものです。この種の小袖は、両袖に腕を通さず、腰まわりに巻き付けて着用したことから「腰巻(こしまき)」とも呼ばれます。ハギレのうちには、藤巴紋(ふじどもえ)と丸に三階菱(さんがいびし)紋の二つをあらわすものがあります。これらは、丸に三階菱紋を家紋とする小笠原家から藤巴紋を家紋とする黒田家に嫁いだ女性(三代藩主・光之の室、もしくは、光之の子・長清の室と継室)が身につけたものだと考えられます。
おわりに
仏教式から神道式へ、華族となった多くの旧大名家が明治になりその葬儀の方法を改めました。黒田家では11代藩主長溥(ながひろ)以降が東京の青山墓地に眠っています。
今回、崇福寺と東長寺のご協力のもと、明治以降忘れられつつあった、江戸時代の黒田家の法要の実態について紹介する機会を持つことができました。当時の人々が領主やその一族の死についてどのように考えていたのか感じ取っていただければ幸いです。
(杉山未菜子・宮野弘樹)