平成21年7月28日(火)~9月27日(日)
41 打敷 敬徳院法要所用(部分) |
はじめに
江戸時代の武家の法要については、徳川将軍家や一部の譜代大名を除いて、その実態はよく分かっていません。
しかし、こうした法要は、宗教的に見れば、死者を弔い先祖を供養する普遍的な精神の営みという点で、その歴史を紹介することは重要であり、また、政治的に見れば、領主の交代を世に知らしめ、その業績を再確認するという点で大きな意味を持ちます。
そこで、今回は、黒田家の菩提寺(ぼだいじ)の崇福寺(そうふくじ)(博多区千代)と東長寺(とうちょうじ)(博多区御供所町)が所蔵する古文書や祭壇を飾った荘厳具(しょうごんぐ)を用いて福岡藩主黒田家の法要の実態に迫ってみたいと思います。
1.おくる
1 黒田光之像(部分) |
黒田家の菩提寺である東長寺には、3代藩主光之(みつゆき)が亡くなってから葬儀を済ませるまでの出来事を記録した古文書が数多く伝わっています。当時の状況を綴った日記(2)を元に、その経過を辿ってみましょう。
宝永(ほうえい)4年(1707)5月20日14時、追廻馬場(おいまわしばば)近く(現在の福岡市中央区護国神社付近)に隠棲していた光之が80才で亡くなります。その知らせは二時間後に東長寺に伝わり、20時には東長寺、大乗寺(だいじょうじ)、南林寺(なんりんじ)ら6名の僧が隠宅に到着しました。22時、藤井勘右衛門(ふじいかんえもん)(光之家臣、1100石)の指示で、光之の入棺の儀式が始まります。僧らは棺に入れる書付の加持(かじ)を始め、根本金太夫(ねもときんだゆう)(光之家臣、1000石)らは光之の沐浴(もくよく)に取りかかりました。それが終わると、光之はあぐらをかかされ、首からは三衣袋(さんねぶくろ)(六文銭などを入れるずだ袋)が下げられました。そして、立花五郎左衛門(たちばなごろうざえもん)(実山(じつざん)、光之家臣、2150石)は綿の袋に入れた「血脈(けちみゃく)の紙」を棺に収めました。日付が変わって21日0時、勘右衛門は光之の入棺を指示します。僧らは棺を居間の二枚重ねの畳の上に据え、光之の剃髪(ていはつ)の儀式を開始しました。その間、床の間には「釈迦如来(しゃかにょらい)」や「不動明王(ふどうみょうおう)」の軸が掛けられました。また、机には供え物が置かれ、矢野安太夫(やのやすだゆう)(光之家臣、3100石)らの拝礼が行われました。一通りの儀式が終わったのは午前2時。一同は広間へ移動し、安太夫らの挨拶があって、僧達はそれぞれの寺へ帰りました。
ここまでが、光之が棺に入るまでの流れです。入棺の儀式を担ったのは、光之付の家臣達でした。その後、21日以降は、葬儀へ向けての準備が慌ただしく進みます。まず東長寺境内には葬送儀礼で使う龕前堂(がんぜんどう)や下火屋(あこや)が用意され、本堂の飾り付けが行われました。そして、向かいの龍宮寺(りゅうぐうじ)には、葬送行列で使う道具(灯籠(とうろう)・天蓋(てんがい)・龍頭(たつがしら)など)の製作のため、多くの大工や檜皮師(ひわだし)が入り込みました。
光之の遺骸は一日間隠宅に置かれた後、22日に東長寺へ運ばれます。およそ150人からなる行列は2時間かけて寺へと向かいました。とりわけ博多橋口町(はしぐちまち)には見物人が多く詰めかけました。遺骸到着後、寺では法要が営まれ、4代藩主綱政(つなまさ)とその嫡子宣政(のぶまさ)が焼香に訪れました。以後3日間は、綱政の代理で家老の黒田清左衞門(くろだせいざえもん)(5110石余)が寺に参っています。
26日の正式な葬儀では再び行列が組まれ、光之が生前に使った道具類が一堂に並びました。最後は輿で運ばれた光之の棺が下火屋の中に収められ、葬送儀礼はひとまず終了しました。
6 黒田光之葬送行列図 中央にあるのが屋外でお参りする為の龕前堂で、右にあるのが棺を収める為の下火屋 |
2.とむらう
24 黒田長政二百年忌の記録(部分) |
東長寺 黒田忠之墓所 両脇は殉死者の墓所 |
葬儀が終わった後も49日までは7日ごとに寺院で法要が営まれます。その後は百ヶ日法要、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、二十三回忌、二十七回忌(この二回は合わせて二十五回忌にする場合もある)、三十三回忌と続き、五十回忌でひとまず節目(弔(とむら)い上(あ)げ)を迎えます。以後の遠忌(おんき)は、家にとってとりわけ特別な存在である人物に限り、50年ごとに法要を行います。黒田家の場合、百年忌法要が行われたことが確認できる最初の人物は、初代藩主長政(ながまさ)の祖父にあたる職隆です。これが貞享元年(1684)のことで、これ以降、歴代藩主とその夫人を中心に百年忌や百五十年忌の法要が営まれるようになります。
歴代藩主の遠忌法要の中で特に規模が大きかったのは、文政(ぶんせい)5年(1822)の長政二百年忌法要です。この時は菩提寺の崇福寺だけでなく、福岡城においても様々な行事があり、領内全体を巻き込んだ盛り上がりを見せました。この背景には長政を顕彰することで、今一度藩としての求心力を回復したい、という思惑があったと考えられています。詳しくは「部門別展示282 神になる殿様」のリーフレットをご覧下さい。
では、家臣にとっての主君の法要とはどのような意味を持ったのでしょうか。主君の法要の担い手となる「寺詰(てらづめ)」を許されるのは家臣として名誉なことでした。孝高(よしたか)(如水(じょすい))夫人照福院(しょうふくいん)との血縁関係にあった原(はら)氏や孝高の叔父の子孫である井手(いで)氏は遠忌法要への参加を許されており、その喜びを綴っています(25・26)。一方、荒巻(あらまき)氏のように、綿密な先祖調査を行い、黒田家との深い関係を証明しようと努力したにも関わらず、許可されなかった事例もありました(27)。家臣にとって法要というのは、いかに主君と近い位置にいるのかを再確認する場でもあったのです。