平成21年10月6日(火)~12月20日(日)
博多麹屋町のごりょんさん |
「博多な者」とごりょんさん
かつての博多といえば、那珂川(なかがわ)と石堂川(いしどうがわ)(三笠川(みかさがわ))に囲まれた10丁4方(約1・2km2)のことを指していました。そこでは商家を切り盛りする女性のことを「ごりょんさん」と呼び慣わしてきました。
博多の男たちは「博多(はかた)な者(もの)」とか「博多の者」などと呼ばれ、口は悪いが義理堅く、開けっぴろげで情にもろい自由闊達(かったつ)な人々として知られています。彼らとともに歩んできた博多の女性たちは、どんな人々で、どんな暮らしぶりがあったのでしょうか。
一年を通じて、博多の男たちは、町内のため、流(ながれ)のためと、家を留守にすることが多くなります。しかし、けっして出しゃばらず、気持ちよく男たちを寄り合いに出し、その間、家業や家庭をしっかりと守る、陰のマネージャー、それこそが「ごりょんさん」なのです。この伝統は21世紀を迎えた現代でも変わらず博多の街に息づいています。
ここでは、明治・大正から昭和時代にかけての博多のひと「ごりょんさん」の暮らしを知ることで、彼女たちが今に伝えてきた都会に生きるための知恵の源を考えてみたいと思います。
博多のひとになる
大正時代は、見合いが主流で、現在のような恋愛結婚は、まだ珍しいこととされていました。縁談は博多の場合は、慎重なうえにも迅速で確実に話を進めるのが良しとされました。仲人さんがテキパキと両家を往来し、話をまとめていきました。博多独特の「済(す)み酒(ざけ)」という習俗は、何よりそれを示しています。これは結納(ゆいのう)ではないのですが、娘さんが縁談を承諾すると、仲人さんがすぐにお酒一升と鯛一尾を届けたのです。これで、婚儀が確実に決まったことを約束するものでした。縁起を担(かつ)いで、一生一代と言いました。娘さんはこの鯛を素早く料理して仲人さんに出し、博多に嫁ぐ覚悟を示しました。これで、母に造ってもらった「嫁御風呂敷(よめごぶろしき)」を手に娘さんは博多のひとになることになります。
披露宴は大きな料亭で行われることも多かったようです。親類縁者の女性たちだけで、「子をとろ、子とろ」という遊びをすることもありました。これは、お嫁さんを子にしてみなで取り合う鬼ごっこで親類の女性たちが、お嫁さんを知り親しくなる機会だったようです。
つき合いの心得
花嫁は、博多独特の習慣を身につけ、対人感覚を磨かなくてはごりょんさんにはなれませんでした。商いは人と人の関係から成り立っているのですから。人づき合いの基本を姑(しゅうとめ)さんに学び、実際に経験を積んでいきます。それにはまず、自らの衿もとを正すことが第一でした。博多で「お化粧するより衿垢落とせ」という心得は、このことをよく示しています
また、お客さんにしても、上客と普段の客の違いがあり、招き入れる座敷も接待の仕方も異なるものでした。大店(おおだな)ともなると、奥座敷、中座敷、座敷と三つの応接間があり、そこの調度品についても詳しい知識が必要とされ、それも覚えていかなければなりませんでした。
それに加えて、博多は親戚よりも隣近所のつき合いの方が頻繁だとも言われ、何かにつけてお祝いなどの贈答が盛んな場所柄です。そのための重箱の管理や袱紗(ふくさ)の選び方なども重要なこととされていました。他にも、親戚のこと、流(ながれ)のこと等々、幾重にもなった博多の人間関係のなかで、ごりょんさんは自然と磨かれていきました。
ごりょんさんの日常
ごりょんさんは、仕事と家庭の両方を切り盛りすることが求められるのですから、とても忙しい。それがごりょんさんの日常でした。そのような毎日から、無駄を省き、確実に家事をこなす智恵が生み出され、博多の町々で共有されてきました。
後世に伝えるためにことわざのようになったものもあります。その一つに、「朝櫛使うより夕櫛使え」というのがあります。これなどは、一日の始まりのときに自分の時間を惜しんで仕事の準備と家庭の仕事を、テキパキとこなすことを教えています。また、失せ物探しのあり方のなかには、忙しいなか不注意になりがちな時でも、危険な針や鋏などで子供たちがケガしないようにという心づかいが隠されています。ほかにも、商家らしく物を無駄なく使い、物の大切さを尊ぶ生活も伝えられています。
先を見通す眼
博多の人々は様々の経験を蓄積し、因果を検証したうえで代々言い繋(つな)いできました。なかでも、女性独特の鋭い感覚で生活に密着したごりょんさんの経験は、特色あるものとなっています。それは、ちょっとした何気ない行為がもたらす結果を知り、一年を見通したり、災難を避けたりするものでした。
たとえば、ぼんやりとしていて「急須(きゅうす)の口がない方を傾けて茶を注ごうとすると、来客がある」と言われるものなどは、次の行動にすばやく移る教えであることはもちろんですが、経験に裏打ちされた女性の予知力であることも確かです。これらは沢山の人間が往来する都会の中で人を見る眼を養うことにつながり、子供たちを正しく育てる技としても働きました。