平成21年10月6日(火)~12月20日(日)
ごりょんさんの山笠
「博多な者」たちがもっとも燃える祭り、それが祗園山笠(ぎおんやまかさ)。7月1日から始まり、15日の櫛田神社(くしだじんじゃ)に奉納する追い山で終わります。
ごりょんさんは、男たちが山笠に出ている間、主のいない商家を切り盛りし、家庭もしっかりと守っていかなければなりません。さらに、舁(か)き手が町内に戻ってくると「炊き出し」など町内の仕事もしなければなりません。
家に戻ると、男たちの汗と勢(きよ)い水に濡れた法被(はっぴ)や締込みなどを洗濯して、急いで乾かすことも必須でした。濡れたままでは、締込みなどは上手に巻けないのです。現在のように洗濯機や乾燥機があっても、この仕事が大変なことに変わりはありません。ごりょんさんの山笠は、男たちがひと息つく、行事が済んだ後から始まるのです。山笠の間は、ごりょんさんたちも家のなかで男たちと一緒に走っているのです。
里の記憶
婚家とは違う習慣を持って博多に嫁入りしてくる女性たちにとって、自分の身振りを博多に塗り替えていくのがごりょんさんへの道でした。しかし、里の記憶がよみがえる場面がないわけでもありませんでした。彼岸(ひがん)などの仏事は、出身も宗派もことなる代々の女性たちが務め、里のやり方が混合して伝わっていることが多かったからです。料理ひとつにしても、代々のごりょんさんの経験が混ざり合っていたといいます。また、なかには正月に一日だけ、博多雑煮とは異なる里の雑煮も作るごりょんさんもあったようです。
大将の甲斐性
明治40年頃の幕出しの様子 |
商家の主人のことを博多では「大将(たいしょう)」と呼びます。松囃子(まつばやし)に山笠、そして盆に彼岸と行事が続いて休みなしのごりょんさんに、大将たちはいろいろな方法で報いました。松囃子前には海や山に行楽にでかけ、山笠あけの秋になると筥崎宮(はこざきぐう)の放生会(ほうじょうや)に詣り、松原で幕を張って飲めや歌えの「幕出(まくだ)し」で楽しみました。その際に着る放生会着物(ほうじょうやぎもん)をごりょんさんに新調してあげるのは、博多の大将の甲斐性(かいしょう)とされました。これができない場合は、筥崎宮には行かずにじっと家にいて「居詣(いまい)り」を余儀なくされました。
このときばかりは慎み深いごりょんさんも堂々と上等な着物をおねだりできたといいます。
大ごりょんさんになる
テキパキと仕事をこなし、決して出しゃばらず大将を立て、いざというときには、勇ましく大将の代わりに矢面(やおもて)に立つ。そして家庭では良き母、それが博多のひと。
彼女たちも息子に嫁を迎えると「大(おお)ごりょんさん」と呼ばれるようになります。今度は「若ごりょんさん」に自分の経験を伝える役目となるのです。ごりょんさんの経験は、こうして代々の女性たちに伝えられ、現代にまで続いてきました。平成の今になっても、それは決して古くさいものではなく、人と人を繋ぐのに十分に役立つ智恵ということができるでしょう。
(福間裕爾)