平成21年10月6日(火)~11月29日(日)
3 几帳檜扇文様振袖(部分) |
今日、われわれが「キモノ」と呼んでいる衣服は、古くは「小袖(こそで)」と呼ばれていました。
小袖の「小」は、「袖口が小さく縫い詰まっていること」をさします。「小袖」の対語として「大袖(おおそで)」という語もあります。「大袖」は、ひな人形に見られるような平安時以来のフォーマルコスチュームの袖口が大きく開いていることをさします。元来、袖口の小さな小袖の衣は、大袖の衣のインナーとして着用されるものでした。しかし、時代を経るごとにインナーであった小袖がアウター(表着(おもてぎ))化します。それは、もとは肌着であったTシャツを外出時や人前でも着るようになった、ここ30年の感覚の変化に似ています。そして、表着化した小袖は、それにふさわしい美しい意匠を持つようになりました。
江戸時代は、この小袖の意匠が最もダイナミックに発展した時代です。その背景として、江戸時代に、町人が大きな経済力を持ち、文化の担い手となったため、それまで公家や高級武家といった一部の特権階級のみが享受していた「美しい装い」に、より広い階層の人々の手が届くようになったことが挙げられます。また、そもそも、直線裁(だ)ちの小袖は、パターン(型紙)に基づいて平面の布から立体的なシルエットをつくる洋服とは異なり、流行によって形を大きく違えるものではありません。人々の「新しい装い」を求めるエネルギーは、ひたすら、二次元の小袖意匠にのみ反映されると言って過言ではありません。こうしたことから江戸時代の小袖意匠は、世界でも類を見ないと言われるほどのヴァラエティー豊かな装飾美をそなえるに至ったのです。
◆友禅染(ゆうぜんぞめ)の登場
4 蘭藤水車文様振袖 |
江戸時代の小袖意匠の展開において、最もセンセーショナルな出来事は、友禅染の登場です。友禅染とは、糊(のり)による防染と、筆を用いた色挿(いろさ)しにより、絵画的な文様をあらわす染色技法であり、17世紀後半に確立しました。友禅染が登場するまで好まれていたのは、光沢に富む綸子(りんず)を生地(きじ)とし、色糸や金糸を用いた刺繍や鹿(か)の子(こ)絞(しぼ)りをふんだんに施した、鮮明な色彩と大柄な文様による大胆な意匠の小袖でした。しかし、こうした手間賃のかさむ小袖は贅沢だとして、幕府は天和(てんな)3年(1683)、金糸繍(きんしぬい)、刺繍、総鹿の子を用いることと、新たな織物や染め物の売り出しを禁止し、一着あたりの値段にも上限を設けました。これまで謳歌されてきた華麗きわまる意匠の小袖は「ご禁制の品」にされてしまったのです。そこで、小袖の文様をあらわす手段として重視されるようになったのが染めの技法です。さらに、天和4年に刊行された、小袖意匠のカタログともいうべき『新板当風ひいなかた』の序文には「頃日世上に惣鹿子金糸縫入の衣服すたり近き頃よりものずきかはり成ほど軽きを本とす是によって当風の物すきの雛形改る(このごろ、世間では総鹿の子や金糸繍の衣服はすたれ、最近は好みが変わり軽妙なものが主流である それをうけて当風の流行の意匠があらたまる)」とあり、染め文様の隆盛には、幕府の禁令という社会的な抑制のみならず、装う人々自身の好みの変化があったことがうかがえます。おそらく、綸子の光沢、刺繍や鹿の子絞りの凹凸がもたらす煌(きら)びやかさに、当時の女性たちはいささか食傷気味であり、平明な染め文様による「軽きを本とす」る意匠に、大きな期待が寄せられていたのでしょう。
今日、友禅染がどのように生まれ、発展していったか、その過程は詳しくは分かっていません。ともあれ、糊置きと色挿しによる文様染めの技法は、またたくまに極度に洗練され、同時に、染めの色彩効果をより高める生地として、光沢のある綸子より、細かいシボがあってマットな質感をもつ縮緬(ちりめん)が好まれるようになりました。ファンタスティックな色づかい、ミニアチュール(細密画)のような繊細な図柄。友禅染がもたらした小袖意匠の新機軸は、女性たち、とりわけ、コンサヴァティブ(保守的)な公家や武家の女性にかわって新たなファッションリーダーとなった町方の女性たちを魅了したのです。