平成22年1月13日(水)~2月28日(日)
6代藩主黒田継高 |
はじめに
福岡藩(ふくおかはん)6代藩主黒田継高(くろだつぐたか)(1703~1775)は50年の長きにわたって藩主の座にありました。継高には多くの実子がいましたが、後継者に恵まれず、成人した二人の男子にも宝暦(ほうれき)12(1762)年と同13年に相次いで先立たれていました。江戸幕府(えどばくふ)の規定では、当主が17歳未満か50歳以上の場合は、亡くなる直前の養子が原則認められていませんでしたので、既に60歳を越えていた継高は万一に備えて早急に跡継ぎを決める必要がありました。この危機を福岡藩ではいかにして乗り切ったのでしょうか。今回、7代治之(はるゆき)(1752~1781)、8代治高(はるたか)(1754~1782) 、9代斉隆(なりたか)(1777~1795)という、継高に続く三人の藩主の治世を、黒田家に伝わった古文書を主に用いて振り返ってみたいと思います。
一 7代治之の治世
当初、継高の後継候補となったのは、岡山(おかやま)藩主池田(いけだ)家に嫁いだ継高の長女の子、護之進(もりのしん)でした。しかし、最終的には、宝暦13(1763)年に御三卿(ごさんきょう)の一橋徳川(ひとつばしとくがわ)家からの要望で同家から隼之助(はやのすけ)(のちの治之)を養子に迎えました。継高の養子縁組関係文書(3)には、この間の事情が詳しく書かれており、黒田家家老(かろう)の郡英成(こおりひでなり)と一橋徳川家家老の田沼意誠(たぬまおきのぶ)(意次(おきつぐ)弟)とが治之を養子に迎えるにあたっての相談をしています。そこでは特に、佐賀(さが)藩と共に担当していた長崎警備の継続願いが強調されました。
7代藩主黒田治之 |
8代藩主黒田治高 |
治之は明和(めいわ)6(1769)年に福岡藩7代藩主となりますが、依然継高は存命であり、藩政は引き続いて家老の吉田保年(よしだやすとし)らが中心となり運営していました。保年は宝暦・明和の改革を推進した中心人物で、財政の再建や農政の改革で成果を上げていました。ただ、他の家老達との関係は必ずしも良好ではなく、特に吉田と郡との仲は険悪でした。黒田継高夫人圭光院(けいこういん)の書状(7)からは、そうした対立の構図が読み取れます。
治之は天明(てんめい)元(1781)年に30歳の若さで亡くなります。藩主在任期間は12年ありましたが、実権を握れたのは、継高が亡くなって以降の、わずか6年余りの間でした。
二 8代治高の治世
治之が亡くなった時、跡継ぎが決まっていなかった為、しばらくその死が隠されました。この時、治之の後継候補となったのは、すでに仮養子(かりようし)(帰国に際して予め決めた後継者候補)として指名していた讃岐多度津(さぬきたどつ)藩主京極高文(きょうごくたかふみ)弟の又八(またはち)(のちの治高)です。京極家は黒田家と同じく宇多源氏(うだげんじ)の流れをくむ家で、養子願を出す際にもその点が強調されました。
こうして、治之の死を二ヶ月間隠して養子となった治高は、翌天明2年に8代藩主となります。同年5月には初めて福岡へやってきて領内の巡見や山笠(やまかさ)見物などをしましたが、6月には体調を崩し、8月21日に亡くなってしまいます。享年29歳、奇しくも命日は治之の一周忌と同じ日でした。
今回も、藩主の死は隠匿(いんとく)され、家老達が中心となり、養子縁組の手続きが進められました。治高は仮養子として一橋徳川家の雅之助(まさのすけ)(11代将軍家斉(いえなり)の弟、のちの斉隆)を指名していたので、治之の時と同様、両家の家老同士の相談の場が持たれました。治高の養子縁組関係文書(11)には、徳川将軍家の一族を頼って家の存続を図る、黒田家側の思惑が見て取れます。また、ここでもやはり長崎警備の継続を、家の存続に続いて願い出ています。
7、圭光院(黒田継高夫人)書状(部分) |