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No.354

歴史展示室

古文書と記録にみる福岡藩政史6 ―治之・治高・斉隆の治世―

平成22年1月13日(水)~2月28日(日)

9代藩主黒田斉隆
9代藩主黒田斉隆

三 9代斉隆の治世
 斉隆はわずか6歳で藩主となりました。そのため、領内の支配や長崎警備は、家老達(長崎警備は支藩の秋月(あきづき)藩主も)が代理でつとめることになりました。
 斉隆の治世で、まず注目されるのは文武の振興です。天明4年には全国的にも珍しい二つの藩校が開設されます(13・14)。一つは朱子学を主として教えた東(ひがし)学問所(修猷館(しゅうゆうかん))で、もう一つは徂徠(そらい)学派の亀井南冥(かめいなんめい)を惣司(そうじ)とする西(にし)学問所(甘棠館(かんとうかん))です。学派の違う両学問所は互いに競い合うライバル関係にありましたが、それに拍車をかけたのが志賀島(しかのしま)における金印(きんいん)(15)の発見でした。学問所開設とほぼ同時期に見つかった金印は、真贋(しんがん)論争をはじめとして議論の的となり(16)、結果的に福岡藩の学問の興隆に寄与しました。

16、金印弁
16、金印弁

 また、黒田家の先祖を祀(まつ)る動きも見られました。天明3年には3代藩主光之(みつゆき)に廃嫡(はいちゃく)された綱之(つなゆき)を祀る幹亮権現社(かんりょうごんげんしゃ)が創立され、同年には初代藩主長政(ながまさ)を祀る黒崎大明神(くろさきだいみょうじん)の祭祀(さいし)が再興されました。また翌4年には長政祖父の職隆(もとたか)の墓所が播磨国姫路(はりまのくにひめじ)(現兵庫県姫路市)で発見され、200回忌の法要と墓所の整備が行われました(17)。
 これらはいずれも斉隆がまだ幼い頃の出来事です。つまり、これらは現藩主の意志ではなく、前代以来の藩主の遺志によって実現されたことでした。
 斉隆が実際に行ったこととしては、寛政(かんせい)6(1794)年以降の領内巡見が挙げられます。前年に初めて福岡にやってきた18歳の斉隆は、2ヶ月近くを費やして領内を巡り、孝子(こうし)や善行の者を顕彰して廻りました(21)。それは、当時の幕府老中松平定信(ろうじゅうまつだいらさだのぶ)(定信養父定邦(さだくに)の正室(せいしつ)は継高四女)の、倹約(けんやく)や勧農(かんのう)を旨とする政策とも一致するものでした(22)。
 こうして、将軍の弟で聡明な若殿を藩主として迎えた福岡藩でしたが、その希望も敢(あ)えなく潰(つい)えてしまいます。寛政7年4月に江戸から帰国した斉隆は、6月初旬に体調を崩し、同23日に19歳の若さでこの世を去ってしまったのです。福岡藩の未来は同年2月に誕生したばかりの松次郎(まつじろう)(のちの斉清(なりきよ))に託され、藩政の運営は引き続き家老達に委ねられることになったのでした(25)。


おわりに
 このように、福岡藩は相次ぐ藩主の死を養子縁組によってなんとか乗り切っていきました。当初目(もく)されていた血統の維持も不可能となり、なにより家の存続のための努力が続けられました。そこで特に福岡藩側が幕府に懇願していたのは長崎警備の継続でした。それは福岡藩の「格別之所柄(かくべつのとりえ)」であり、また、「武門之規模(ぶもんのきぼ)(=名誉)」とされた役儀(やくぎ)でした(11)。生後8ヶ月で10代藩主となった斉清にも、引き続き長崎警備が任されました。本来警備が出来ない年齢にも関わらず、その継続が認められたのは、ひとえに前代以来の徳川将軍家との関係があったからなのかも知れません。

(宮野弘樹)

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