平成22年2月16日(火)~4月11日(日)
2 加瀬元春像(部分) |
3 加瀬元将像(部分) |
はじめに
江戸時代の中頃から幕末にかけて、福岡湊町(みなとまち)(福岡市中央区港周辺)で酒造業を営む商家がありました。屋号を「加瀬屋(かせや)」と言います。この商家の6代当主加瀬元春(もとはる)と7代元将(もとまさ)の父子は多くの記録を書き残しています。
記録は16冊が現存、記事は享保(きょうほう)7(1722)年にはじまり嘉永(かえい)4(1851)年で終わりますが、記述は二人が生きた寛政期(1789~1804)から嘉永期(1848~54)が中心。この時期は幕府や藩による政治改革が相次ぎ、アメリカやロシアをはじめとする諸外国が開国を求め来航するなど、江戸幕府による支配体制の矛盾が顕在化した時代でした。
このような時代背景のもと、元春・元将父子は、加瀬屋の経営や家内の出来事にとどまらず、当時の政治動向、物価相場、稲の作柄、台風や地震といった自然災害など多岐にわたって、福岡藩内だけでなく全国にも視野を向けて様々な事柄を書き記しています。
それでは、二人が書き残した記録「加瀬家記録」と関連の資料を通じて、18~19世紀の福岡・博多の世相を紹介していきましょう。
一、加瀬家の人々
加瀬家の祖は、筑前国怡土郡(ちくぜんのくにいとぐん)の高祖城(たかすじょう)(福岡県糸島市・福岡市西区)を居城とする原田信種(はらだのぶたね)に従っていた加瀬熊王(くまおう)であると伝えられています。天正(てんしょう)14(1586)年12月、信種が九州平定のため出陣してきた小早川隆景(こばやかわたかかげ)らの軍勢と対陣し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に降伏した際、熊王は浪人となり、その後、早良郡曲渕村(さわらぐんまがりぶちむら)(福岡市早良区)で病死しました。その子孫は曲渕村で帰農し百姓となりました。
江戸時代となり、寛文(かんぶん)期(1661~72)から延宝(えんぽう)期(1673~81)のはじめ頃、加瀬嘉兵衛元長(かへえもとなが)が曲渕村から福岡荒戸新町(あらとしんまち)(後に湊町と改称)へ移り住み、その養子元忠(もとただ)が酒造をはじめました。以後、加瀬家は代々酒造業を営み、江戸後期の5代元実(もとざね)、6代元春、7代元将の時代には質屋など経営を拡大、福岡藩と支藩秋月藩の銀主(ぎんしゅ)や、福岡藩士の世帯請持(せたいうけもち)(藩士が得る蔵米や扶持米の受取と売却を担い、融資も行う)となりました。この間、元実は天明(てんめい)6(1786)年から寛政(かんせい)8(1796)年まで、元春は文化(ぶんか)4(1807)年から同8年まで年行司(ねんぎょうじ)(町奉行のもとで町政を運営する町方の役人。宝暦(ほうれき)6(1756)年以降は博多と福岡に2人ずつ置かれた)を務めるなど、福岡の町政において重きをなしました。
加瀬家の人々は、藩士の世帯請持となり、福岡の町政に関与することなどにより領国内外の情報を入手し、それを書き留めたのが「加瀬家記録」なのです。