平成22年2月16日(火)~4月11日(日)
二、商売に欠かせない政治の情報
「加瀬家記録」の記述の中心は福岡藩政の動向です。福岡・秋月両藩の銀主で藩士の世帯請持であったため、政策の内容から家老や町奉行など役人の任免にいたるまで、高い関心を持って詳細に記述されています。
記録が書かれた当時、福岡藩は多額の借銀を抱えており、その打開のため藩札の発行や大坂借銀の整理、専売制の実施など様々な政策を行っていました。中でも天保(てんぽう)改革として、天保5(1834)年に御救仕組(おすくいしくみ)、同12年に借財道付方仕組(しゃくざいみちつけかたしくみ)、同13年に前借米御差紙仕組(まえがりまいおんさしがみしくみ)が実施され、財政難の打開と一般領民・家臣団の救済が図られました。記録には、この改革の経過や内容が町人の視点から風説などを織り交ぜつつ克明に記されています。
また、当時頻発していたロシアをはじめとする外国船の長崎来航に関する記事も多く見受けられます。とくに、文化元(1804)年のロシア使節レザノフの来航(日本との通商を要求)や同5年のフェートン号事件(イギリス軍艦がオランダ船と偽り長崎港に侵入)、弘化(こうか)元(1844)年のオランダ国使の来航(開国を勧告するオランダ国王の書翰を持参)などは、経過だけでなく使節が携えて来た信牌(しんぱい)(長崎入港の許可証)や書翰の写まで記されています。これらは、福岡藩が佐賀藩と隔年で長崎警備を務めていた関係から、元春と元将が詳細な情報を入手して記録していたことをうかがわせるものです。
19 「旧稀集」より 文政11年の大風の様子 |
三、商売を左右する災害の情報
「加瀬家記録」には、福岡藩領内で起こった災害に関する記述が散見されます。特に洪水などの水害については、各地の被害状況が詳しく記されています。
文政(ぶんせい)11(1828)年8月、2度にわたって福岡を襲った大風は、領内に甚大な被害を与えました。記録には、福岡城内の櫓や城下の屋敷、筥崎宮(はこざきぐう)をはじめとする寺社の損壊など、その状況が詳細に記されています。
また、加瀬家は酒造業を営み、福岡藩の銀主などを務めていたため、全国各地の災害と併せて稲の作柄、米穀など物価の相場などの情報を積極的に入手したと考えられ、それらの情報も記録のなかに頻出しています。
四、福岡・博多を彩る娯楽
「加瀬家記録」には、政治や災害の情報以外にも福岡・博多で起きた様々な出来事についても記されています。ここでは、芝居・相撲興行について紹介します。
江戸後期、箱崎御茶屋や寺社境内などで歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)など芝居(しばい)上演、相撲(すもう)興行が行われる機会がありました。芝居は、福岡藩領内の一座によって興行が打たれましたが、江戸や大坂からも役者が来演することがありました。中でも天保5年10月に博多中島町(はかたなかしままち)(福岡市博多区)で行われた歌舞伎芝居は、江戸から5代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)(7代目市川團十郎(だんじゅうろう))、上方から4代目中山新九郎(なかやましんくろう)らが来演し、興行は大当たり、芝居小屋周辺には茶屋が出来るなど大変な賑わいとなりました。また、海老蔵は、翌6年5月にも岩井杜若(いわいとじゃく)(5代目岩井半四郎(はんしろう))らとともに来演しています。「加瀬家記録」は、この時の様子を「筑前古来ヶ様(こらいかよう)なる大芝居ハ聞も不伝」と伝えています。
(髙山英朗)