平成22年2月23日(火)~4月18日(日)
チンチン電車が走っていた頃
明治45(1912)年に「吉塚線」、大正13(1924)年に「貝塚線」、そして、昭和2(1927)年に現在の大濠公園周辺で開催された東亜勧業博覧会にあわせて「城南線」が開通しました。
福岡市内の路面電車は、「青切符」と呼ばれた福博電気軌道の路線を継承した会社と、「赤切符」と呼ばれた博多電気軌道の路線を継承する会社で運行されていました。昭和9年、東邦電力の軌道事業部門(福博電気軌道の系統)と博多電気軌道の軌道事業が統合されて、福博電車株式会社が誕生し、福岡市内の路面電車の経営が一元化されました。さらに、昭和17年には、福岡県内の5つの私鉄が合併して西日本鉄道株式会社が誕生しました。
昭和32年に発表された松本清張の『点と線』では、福岡署の刑事が事件現場である香椎へ赴く際に路面電車を利用しています。
という具合です。福岡署というのは、現在の中央警察署(福岡市中央区天神一丁目)のことです。当時、路面電車がもっとも便利な交通機関であった様子がうかがえます。
昭和20年代後半の交通調査表 |
さよならチンチン電車
明治43年の開業以来、福岡市民にとって身近な交通機関であった路面電車も、自動車の車両数の増大などにより、交通渋滞の原因の一つとして、廃止が議論されるようになりました。昭和30年代後半から40年代前半にかけて、好景気も手伝って、乗用車の数は急激に増加していきました。昭和34年には全国で31万9009台だった乗用車が、昭和40年には218万台を超え、そして、昭和46年には1000万台を超えました。福岡都市圏でも、昭和34年に5574台だった乗用車が、昭和40年に2万1192台、昭和46年に9万7742台になっていました。
昭和48年1月5日に「吉塚線」、昭和50年11月2日には「貫通線」「呉服町線」「城南線」が廃止されました。そして、昭和54年2月11日に「循環線」「貝塚線」の廃止によって、福岡市内から路面電車が姿を消しました。路面電車は、その座をバスや地下鉄に譲ったのです。
(太田暁子)