平成22年2月23日(火)~4月25日(日)
揚水車(西区姪浜) |
博多明治風俗図より 「水売」部分 |
はじめに
「ふくおか民俗カタログ」は、福岡市域で育まれ、受け継がれてきた数多くの祭りや年中行事、人々の暮らしの仕組みや約束事、あるいは生きるための知恵や祈りの姿など、さまざまな民俗を通して、福岡の地域的な特色を再発見していくシリーズです。その4回目は、人々の暮らしと水との関係について取りあげます。
水を摂(と)り、また水を利用しなければ生きられない私たちは、古い時代からおのずと水に対して畏敬(いけい)の気持ちを保ち伝えてきました。「主人が井戸の水を汲んで口を嗽(すす)ぎ、先づ神棚のお花の水をかえ、新らしい木綿の手拭(てぬぐい)で明きの方(恵方(えほう))に向つて顔と手を拭(ぬぐ)ふ。」(佐々木滋寛編『博多年中行事』)という元旦の「若水」行事は、水が私たちに活力と若さを与えてくれるという信仰の典型です。
すこし現実の生活に寄り添ってみれば、水田の水利用の仕組みが、個人やイエにあるのではなく、ムラなどの共同体の財産として働いている点も注目されるでしょう。この仕組みによってイエどうしは必然的に連帯し、ムラとしてさまざまな祭りごとが続けられてきました。
このように個を超越した存在として水をとらえる心意があるいっぽう、水そのものを個人として使いこなす技もまた、私たちの暮らしの中で次々と生まれてきました。そこで本展では、家の「水まわり」に焦点を当て、そこで活躍してきた道具類を紹介しながら、その変遷をたどることにしましょう。
一、水を得る
福岡市に初めて上水道が通ったのは大正12年(1923)のことでした。明治22年(1889)の計画開始以来、紆余曲折(うよきょくせつ)を経ての完成でした。水源は室見川(むろみがわ)上流の曲渕(まがりぶち)(早良区曲渕)で、当時の福岡市と糟屋郡箱崎町(かすやぐんはこざきまち)を給水区域とし、12万人のもとに水が送られました。
上水道が計画される以前、福博の人々は生活用水を井戸に頼っていましたが、その水質は決して良いものではありませんでした。明治20年(1887)の検査で「良」の判定が出たのは4530基中1248基、全体の四分の一強に過ぎませんでした。福博の井戸は多くが塩気(しおけ)や金気(かなけ)が強すぎて飲用に不向きであったり、生活排水で汚染されたりしていたようです。そのため夏になるとコレラや赤痢(せきり)などの伝染病が蔓延(まんえん)しました。
そこで登場したのが水売りです。明治29年(1896)、古くから松原水(まつばらみず)の地として知られた千代の松原(博多区千代)に掘られた市設の井戸からは、良質の水を得ることができました。この水を給水夫たちが一斗(と)五升(しょう)(約27リットル)の水桶(みずおけ)につめ、車力(しゃりき)(荷車)に12個ずつ積んで市内の各家庭に届けました。その価格は上水道開通直前頃に一斗あたり5銭ほどでした。しかし金を払って水を買うということが納得できない人も多く、井戸水も使い続けられました。