平成22年2月23日(火)~4月25日(日)
八朔の水屋模型 |
玄界島の共同井戸 |
二、水まわりという空間
もし今、私たちが家の間取りを考えねばならなくなったら、多くの人がいわゆる水まわりの配置について頭を悩ませることでしょう。炊事、洗濯、入浴、洗面、排泄といった日常生活に欠かせない行為が、この水まわりと呼ばれる空間に凝縮され、日々繰り返されているからです。
しかし大正時代頃までは、この空間はあまり顧みられることがありませんでした。そして水まわりという考え方自体も、まだ明確な形で現れてはいませんでした。洗濯、入浴、洗面の場は、必ずしも自宅の屋内にあるとは限らず、排泄の場に至っては、水洗トイレが普及するまで水との関係は非常に希薄でした。
炊事の場は母屋(おもや)の内にありましたが、その多くは薄暗く、壁や柱は竈(かまど)の煙で煤(すす)けていました。子どもの八朔(はっさく)祝いとして明治の初め頃に作られた水屋(みずや)模型をみると、かつての炊事場の大まかな構造を知ることができます。当然水道はありませんから井戸から釣瓶(つるべ)で水を汲みます。汲んだ水は水桶に溜め、必要に応じて汲み出しますので、流しで使う水の量は現在に較べてたいへん少ないものでした。また板の床が調理作業のスペースであったこともわかります。
洗濯機置場が屋内に確保されている現在と違い、かつて手で洗っていた頃の洗濯場所は屋外でした。大量の水を必要とするため、井戸の周辺で行われることが多く、それが催合(もやい)井戸(共同井戸)であったりすると、そこで「井戸端会議」に花が咲き、さまざまな情報が交換されることになりました。
風呂もまたどの家にもあるわけではありませんでした。都市部では銭湯、農漁村では催合(もやい)風呂(共同風呂)も多く利用されていました。浴槽の形も桶を使ったもの、箱形のもの、鋳物(いもの)でできたものと、同じ時代でも家ごとにいろいろな種類がありました。
洗面の場もまたさまざまでした。井戸のまわり、風呂場、炊事場の流しや土間などあちこちが洗面の場となりました。
さて、水との関わりが希薄だったかつての便所も、人体を通った水の行く末とみればまた水にまつわる大切な資源を生み出す場といえるでしょう。都市部の屎尿(しにょう)を肥料として周辺の農家が買い受ける仕組みは盛んで、都市と農村とをつなぐ重要な契機ともなっていました。
冷却器 |
三、氷・水・湯・蒸気
私たちは水をそのまま水として使うだけではなく、加熱したり冷却したりすることで、水の用途がより広がるということを知っています。
湯を沸かすということは、まず生水(なまみず)に対する衛生上の不審という理由がありました。また、調理をする上で湯を沸かすという作業は欠かせませんし、さらに進んで蒸気としての利用も一般的です。そのほか湯たんぽのような蓄熱の用途にも用いられるなど、古くから水の加熱利用は盛んでした。
いっぽう冷却については、水を冷やすよりも水で冷やす方が一般的でした。冷たい井戸水でスイカなどを冷やすことはよく行われていましたし、麦茶などを冷やすときには、ブリキでできた水筒状の容器に入れて水につけたり、さまざまな工夫がなされていました。
家庭における氷の利用は新しく、氷冷蔵庫が普及したのは戦後のことです。氷冷蔵庫は氷を使ってものを冷やすための道具だったことは、わずかに遅れて普及した電気冷蔵庫が保存に主眼を置いていたのと大きく違う点でした。
(松村利規)