平成22年3月2日(火)~4月18日(日)
6 鍍金鐘 |
はじめに
国宝「金印」が発見されたことで知られる志賀島は、博多湾の入口に位置する周囲約9.5キロメートル、面積約5.8平方キロメートルの島です。風待ちに適したこの島は船舶の停泊地として古くから知られ、『万葉集(まんようしゅう)』にはこの島の風景を題材にした歌が数多く収められています。中世には蒙古襲来で戦いの舞台となるいっぽう、博多における対外交渉の中で重要な位置を占め、日本と大陸を行き来する様々な人々が足跡を残しました。
この島には海の神をまつる志賀海神社(しかうみじんじゃ)があり、海に関わる人々の信仰を集めてきました。また、江戸時代以前には志賀海神社の神宮寺(じんぐうじ)として吉祥寺(きっしょうじ)がおかれ、その本尊である文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)の霊験(れいげん)は遠く都にまで知られていたようです。こうした信仰にまつわる遺品は志賀海神社のほか、吉祥寺の由緒を受け継ぐ荘厳寺(しょうごんじ)に今なお大切に守り伝えられています。
志賀島は平成17年3月20日におこった福岡県西方沖地震で甚大な被害を受け、島内にある文化財も損傷を被りました。地震から5年がたち、ようやくその傷も癒えつつありますが、私たちはこれからも地域の文化財を後世に伝えていかねばなりません。本展示では、地震以来当館で保管されてきた仏像などを中心に志賀島の信仰の歴史を紹介します。
一、志賀海神社
志賀島の歴史は神話の時代に遡ります。鎌倉時代の歴史書『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』は『筑前国風土記(ちくぜんのくにふどき)』を引き、神功皇后(じんぐうこうごう)の従者が「此の島は打昇浜(うちあげのはま=海の中道)と近く相連接す」と述べた故事を載せています。つまり海の中道に近い島だから「近島(ちかしま)」と言い、やがて「資珂島(しかしま)」に訛(なま)ったいうのです。この島には古くから航海や製塩、漁撈(ぎょろう)を生業(なりわい)とした人々が住み、阿曇(あずみ)氏が彼らを統率していたようです。阿曇氏の祖先の霊とされるのが海の神「少童命(わたつみのみこと)」であり、この神を祀ったのが志賀海神社です。
5 聖観音菩薩立像 |
二、遣唐使と志賀島
奈良時代になると志賀島には大宰府の官人たちが訪れています。『万葉集』には彼らが詠んだ歌のほか、神亀(じんき)年間(724~729)に対馬に物資を輸送する途中遭難した志賀村の白水郎荒雄(あまあらお)を悼(いた)む歌が収められています。この島の人々が優れた航海技術をもち、大宰府の命により困難な海上輸送に従事していた様子が思い浮かびます。
承和(じょうわ)5年(838)、遣唐使の一員として中国に渡った天台僧円仁(えんにん)は『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』の中で、志賀島の東海で風待ちのため5日間留まったと記しています。貞観(じょうがん)元年(859)、朝廷は志賀海神に対し従五位上(じゅごいのじょう)の神階を授けていますが、大型船の停泊に適した志賀島は国の外交活動の中でも重要であったことがわかります。
荘厳寺の【聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)No.5】は9世紀後半に制作されたボリューム豊かな木彫像で、もとは志賀海神社の末社に祀られていたと伝えられます。観音菩薩は航海守護の仏であり、志賀島から船出する人々はこの観音像に航海の安全を祈ったことでしょう。