平成22年3月2日(火)~4月18日(日)
三、対外交渉の島
志賀島には大陸からもたらされた貴重な文化財が伝えられています。志賀海神社の【鍍金鐘(ときんしょう)No.6】は全面に鍍金が施された装飾性豊かな朝鮮半島・高麗(こうらい)時代の梵鐘です。また、【菩薩形坐像(ぼさつぎょうざぞう)No.7】は火中したため痛々しい姿ですが、やはり高麗時代に制作された精巧な銅製の仏像です。
志賀島は平安時代末に長講堂領(ちょうこうどうりょう)と呼ばれる天皇家の荘園に属していますが、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』には万寿(まんじゅ)4年(1027)に志賀海神社の社司が宋船に乗り中国から帰国したことが記されています。この島が中央貴族による大陸文物摂取の窓口として機能していた状況が窺われます。室町時代には室町幕府や周防(すおう)の大名大内氏の主導のもと日明(にちみん)・日朝貿易(にっちょうぼうえき)がおこなわれ、日本からの使節や朝鮮王朝の使者が志賀島を訪れています。大陸の仏教美術は志賀島が対外交渉の島であったことを雄弁に物語る遺品と言えるでしょう。
9 志賀海神社縁起絵(第2幅) |
四、蒙古襲来と志賀島
志賀島は二度に及ぶ蒙古襲来(文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき))で激しい戦闘の舞台になりました。肥後(ひご)の御家人(ごけにん)・竹崎季長(たけざきすえなが)の活躍を描いた『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』には志賀海神社の社殿が蒙古兵とともに描かれています。こうした出来事は、その後の志賀島の信仰にも大きな影響を与えたようです。
志賀海神社に伝わる【志賀海神社縁起絵(しかうみじんじゃえんぎえ)No.9】は三幅からなり、第一幅は神社の境内を、第二・三幅は神功皇后にまつわる説話を描いています。この中には阿曇磯良丸(あずみのいそらまる=志賀海神)が海中から亀に乗って現れ、神功皇后の兵船の舵取として活躍する姿が描かれています。制作時期は蒙古襲来の余韻が未ださめやらぬ鎌倉時代末から南北朝時代とみられ、志賀海神の霊験を人々に説明するための「絵説(えと)き」として用いられたと考えられています。
なお、この縁起絵は天正(てんしょう)20年(1592)に京都の聚楽第(じゅらくだい)で朝鮮出兵を目前に控えた豊臣秀吉の上覧に供せられています。秀吉は神功皇后の説話に自らの野望を重ね合わせたのかもしれません。
五、文殊菩薩の聖地
中世の志賀島は文殊菩薩の聖地というもう一つの顔をもっていました。南北朝時代の博多出身の禅僧・乾峰士曇(けんぽうしどん)(1285~1361)の伝記には、士曇の母が志賀島の文殊に祈願して身ごもった話が記されています。文殊菩薩は一般に智慧の仏として知られていますが、「渡海文殊(とかいもんじゅ)」のように海を渡る姿にあらわされることもあります。文殊は志賀島に相応しい仏であったと言えるでしょう。
志賀島の文殊像のことは室町時代の禅僧や公家(くげ)の記録にも見え、丹後(たんご)・天橋立(あまのはしだて)の文殊と並び称されるほど有名であったようですが、残念ながら文禄(ぶんろく)2年(1594)に火事で半焼したとする記録があります。現在、荘厳寺に伝わる【文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)No.10】は、志賀海神社の神宮寺である吉祥寺文殊堂から明治初年に移されたもので、江戸時代に再興されたものです。
六、荘厳寺の什物
蓮台山(れんだいさん)荘厳寺は聖一国師(しょういちこくし)(1202~1280)が開いたと伝える臨済宗東福寺派の寺で、吉祥寺から移された仏像のほか江戸時代の貴重な什物を伝えています。中でも福岡藩の御用絵師であった上田主治(うえだもりはる)の【仏涅槃図(ぶつねはんず)No.18】や、博多の焼物師・正木宗七(まさきそうしち=四代幸弘(ゆきひろ))が制作した陶製の【達磨像(だるまぞう)No.17】などは美術資料としても価値が高く、大切に守り伝えていく必要があります。
(末吉武史)