平成22年4月20日(火)~6月27日(日)
平栫式土器(早期:南区柏原遺跡) |
縄文土器と聞いて、どんなイメージを持ちますか。ことば通りに縄目がついた土器でしょうか。躍動感あふれる火炎土器を思い起こす方もあるかもしれません。1万年以上の長きにおよぶ縄文時代には様々な形や文様を持つ土器が作られました。
福岡は弥生時代の遺跡が多く、金印を受け取った奴国の所在地でもあります。それに比べると縄文時代の遺跡は少し印象が薄いかもしれません。また東日本のように高い密度で縄文時代の遺跡が発見されることもありません。そんな中、近年の発掘調査で市内の縄文時代遺跡の事例も蓄積されてきました。
この展示では、福岡市内から出土した縄文土器を、時代を追って紹介しています。資料には破片が多く全形がわからないものもありますが、想像をふくらませて縄文土器の造形、文様を見つめてみませんか。
大正15年大濠出土土器 |
縄文土器発見
明治10(1877)年、アメリカ人動物学者エドワード.S.モースが東京都大森貝塚を発掘し、出土した縄目のついた土器などを総称して「Cord Marked Pottery」と呼びました。その訳語として使われたのが「縄文土器」の始まりです。
ここに一片の土器があります。大正15(1926)年、福岡市内で初めて発見された縄文土器です。見出したのは九州の考古学の基礎を築いた中山平次郎(へいじろう)博士。場所は現在の大濠公園の池の中です。昭和2(1927)年に開催された東亜勧業博覧会用地の埋め立てのため、大堀の水を干し、掘り取られた砂泥の中からの発見でした。「従来私共が見出し兼ねて居た遺物であるだけに頗(すこぶ)る注目すべき発見物といわねばならぬのである。」その報告『福岡城西大堀発見のアイヌ式土器片』考古学雑誌第十六巻第十二号からは発見時の興奮が伝わって来ます。
中山博士は弥生時代の研究や鴻臚館(こうろかん)の発見などでよく知られていますが、縄文土器についても、文様のつけ方を検証する実験を初めて行うなど注目していました。この時の報告でも、熊本県阿高(あたか)貝塚出土の縄文時代中期の土器を類似例として取り上げ、現在に通じる評価を行っています。
また、この報告では「アイヌ式土器」という言葉が使われています。明治から大正期には、縄文土器が主に貝塚から出土するために「貝塚土器」と呼ばれたり、アイヌの人々の祖先が使ったと考え「アイヌ式土器」と呼んだりしていました。また、弥生式土器とは使用した民族が異なると考えられたりもしていました。その後、昭和初期には時期差であるという認識が確立し、「縄文土器」、「縄文式土器」という用語が一般的になりました。
そして縄文土器を使った時代を、弥生(式)時代に対して縄文(式)時代と呼ぶようになり、現在では土器の分類で順に草創期、早、前、中、後、晩期の6期に大別されています。
土器のはじまり
日本列島における土器のはじまりは約1万5千年前まで遡(さかのぼ)るといわれています。長い氷期の終わりに気候が急激に温暖化し、自然環境が大きく変わる時代でした。この変化を背景として煮炊き用の土器が生まれ、食生活の幅が拡大し生活に大きな影響を与えました。ここから1万年以上におよぶ縄文時代が始まります。
福岡市内で確認されている最も古い土器は、無文(むもん)土器・条痕文(じょうこんもん)土器と呼ばれる土器で、大原(おおばる)D遺跡(西区)では約1万3千年前の年代値が得られています。そして、これに近い時期の刺突文(しとつもん)土器、撚糸文(よりいともん)土器などが市内の丘陵裾部を中心に出土例が増えてきています。また、土器出現期のものと類似した石器が市内数カ所で見つかっており、さらに古い土器が出土する可能性もあります。