平成22年6月8日(火)~8月8日(日)
原田嘉平氏(昭和40年代) |
原田嘉平(はらだかへい)(1894~1982)は大正・昭和期に活躍した代表的な博多人形師です。写実性と叙情性を兼ね備えたその作品は多くの人に愛され、昭和41年(1966)には博多人形師としてはじめて福岡県の無形文化財保持者に認定されました。
原田は昭和57年(1982)に他界しますが、博多区冷泉(れいせん)町の自宅兼工房に残っていた遺品は、夫人のご厚意により当時開館準備中であった福岡市博物館に寄贈されました。その内容は人形作品のほか、石膏(せっこう)型や制作道具、下絵、書簡など多岐にわたり、総数は約4千点にものぼります。
本展示では原田嘉平資料の中から昭和初期の代表作「夕映(ゆうば)え」をはじめ、壮年期から晩年にかけての作品をご紹介します。人形作りに生涯を捧げたひとりの人形師の、表現に込めた想いを感じていただければ幸いです。
1、修業時代
原田は明治27年(1894)に大乗寺前(だいじょうじまえ)町(博多区冷泉町)で農機具の鋳型を製造していた父共吉、母とみの長男として生まれました。明治42年(1909)、住吉高等小学校を卒業した原田は、当時名声のあった白水六三郎(しろうずろくさぶろう)に入門し、人形師としての道を歩み始めます。白水工房には兄弟子の小島与一(こじまよいち)をはじめ多くの徒弟が住み込みで働いており、仕事は早朝から深夜に及んだといいます。
白水はアメリカ帰りの画家矢田一嘯(やたいっしょう)や彫刻家の山崎朝雲(やまざきちょううん)らと交流をもち、その指導を受けながら博多人形に西洋流の写実を取り入れようとした先駆的な人形師でした。原田もその影響を受け、大正3年(1914)には京都帝国大学福岡医科大学(九州大学の前身)で師匠や兄弟子らと共に解剖(かいぼう)学の講義と実習を受けています。こうした試みは、それまで玩具として扱われていた博多人形が美術品へと昇華し、近代化するうえで大きな1歩であったと言えるでしょう。
3 夕映え |
2、大正・昭和前期
原田は9年におよぶ修業時代を終え、大正6年(1917)に独立して大乗寺前町に工房を開いています。
その頃、日本各地では殖産興業のかけ声のもと多くの博覧会や共進会が開かれていました。新進の博多人形師たちはこうした催しに積極的に参加しながら作品の芸術性と技術・ブランドの向上に努めました。原田も独立直後から国内外の様々な催しに出品し、大正14年(1925)にはフランスのパリで開催された万国博覧会(現代産業装飾芸術国際博覧会)で「浮世絵文政(うきよえぶんせい)の宵(よい)」が銅牌(どうはい)を受賞しています。
昭和3年(1928)には昭和天皇即位にともなう大嘗祭(だいじょうさい)のため早良郡脇山村(福岡市早良区)が主基斎田に指定され、小島与一と原田の2人が福岡県からの依頼により皇室に献上する人形を制作しています。
この時期の博多人形には浮世絵や日本画を題材にした繊細で叙情的な作品が多かったといいます。湯浴みして夕涼みをする女性をあらわした「夕映え」(No.3)は、夢見るような表情が儚(はかな)げな昭和初期の作品で、今では失われた時代の雰囲気が窺われます。
戦局が慌ただしくなった昭和17年(1942)、原田は博多人形工業組合の理事長に就任し、厳しい物資統制のなかで博多人形の販売と技術の存続に苦慮しています。空襲を避けるための疎開(そかい)生活が続き、終戦後もしばらくは物心ともに困難な状況が続いたようですが、そうした中でも「漁夫(ぎょふ)」(No.6)のような「PX人形」と呼ばれる進駐軍向けの輸出品を制作したり、西戸崎(さいとざき)(福岡市東区)の米軍キャンプの子供達に人形作りを教えたりしています。