平成22年6月15日(火)~8月15日(日)
灯火管制のために電灯にかぶせるカバー (昭和13年頃) |
昭和20(1945)年6月19日深夜から翌20日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)による爆撃をうけ、博多部など福岡市の中心部は焼け野原になりました。福岡市博物館では、開館以来、この「福岡大空襲の日」の前後に「戦争とわたしたちのくらし」展を開催してきました。毎回さまざまなテーマで展示をしてきたこのシリーズも今年で19回目です。
今回は、「銃後(じゅうご)の備え」に注目したいと思います。前線の兵士ではなく、銃後(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。)の人びとが強いられた心構えや備えとは、どういったものだったのでしょうか。当時の人びとのくらしをしのび、あらためて「戦争と平和」について考えるきっかけにしていただければと思います。
ポスター「防空図解」(昭和13年) |
空襲に備える
第1次世界大戦(1914~18)で戦争に航空機が本格的に投入され、爆撃にも使われるようになると、銃後でも空襲への備えが必要になりました。日本で防空法が制定されたのは昭和12(1937)年のことですが、空襲に備えての防空演習は、昭和3年に大阪で初めて行われ、福岡では、昭和6年から実施されています。
昭和13年6月に、陸軍の指導のもと赤十字博物館が編纂した啓発ポスター「防空図解」では、空襲についての基本的な知識のほか、灯火管制、焼夷弾による爆撃に対する対処法、毒ガス攻撃に対する対処法が示されています。各家庭で備えなければならない防空用品も具体的にあげられています。
敵機の来襲を未然に防ぐことができれば、空襲による被害を受けることはありません。しかし、完全に敵機の進入を防ぐのは困難であるため、被害をできるだけ防ぎ、軽減させるためには、銃後の国民にも日頃の備えと訓練、心構えが必要とされたのです。「家庭防空」という言葉が、当時の印刷物のなかに登場します。「自分達の家は私達で守りませう」というのが、「空襲に対する国民の覚悟」だったのです。