平成22年6月15日(火)~8月15日(日)
ポスター「毎月一日興亜奉公日」 |
上魚町少年団の集合写真(昭和15年) |
「固い銃後」と「強い将兵」
戦地の将兵や、出征兵士たちの家族、戦地で負傷した人びとを、思いやり、支えることも、銃後の国民のつとめとされました。戦地の兵士へ慰問文や慰問袋を送ること、働き手が出征してしまった農村へ勤労奉仕に行くことなどが、ことあるごとに呼びかけられました。
「戦地の兵士の労苦を偲び銃後の守りを固める決意の日」として、昭和14(1939)年9月から毎月1日は「興亜奉公日(こうあほうこうび)」と定められました。国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕のほか、学童は日の丸弁当(副食なしで米飯と梅干しだけの質素な弁当)持参、料理屋やカフェなどは一斉休業が求められました。また、心身を鍛練し、丈夫な身体をつくることも「お国のため」とされました。昭和16年12月8日の太平洋戦争突入後、「興亜奉公日」は廃止され、昭和17年1月からは、毎月8日が「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」と定められて、同様の活動が求められました。
銃後の人びとのなかには、子どもも含まれます。昭和16年4月、小学校が国民学校と改称されました。小学校令(明治33・1900年改正)では、初等教育の目的は「児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」こと。一方、国民学校令では、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」こと。小学校が、人びとが生活して行く上で必要な基礎を身につけさせることを目的としたのに対して、国民学校は、「皇国民」の錬成を目的としていたのです。初等教育の場でも、明確にそれまでとは異なる銃後の心構えが提示されたといえます。
ポスター「支那事変国債売り出し」 (昭和15年) |
貯蓄と戦時債券
戦争中は、軍事優先となるため、あらゆる物資が不足します。そのため、銃後の人びとには、質素倹約が呼びかけられ、冠婚葬祭も含むあらゆる面での簡素化がうたわれました。しかし、戦争遂行のためには、物資を軍事へまわすだけではなく、莫大な戦費を調達しなければなりません。銃後の人びとには、戦費調達のために、貯蓄が奨励され、戦時債券の購入が割り当てられました。
国民の預貯金も、戦費に充てられ、普通なら自分や家族のためにする貯蓄が、「貯蓄報国」というスローガンのもと、「お国のため」ということになりました。具体的な貯蓄目標額も示されました。昭和13(1938)年には80億円、14年は100億円、15年は120億円……年々、目標額は引き上げられ、昭和19年には410億円にまでなりました。昭和15年の国勢調査によれば、当時の日本の人口は約7300万人です。120億円の貯蓄を達成するためには、単純計算で国民1人当たり160円以上が必要になります。かけそば15銭、天丼が50銭という時代です。「貯蓄報国」の目標額の高さが想像できるでしょう。
戦費調達のための債券もつぎつぎと発行されました。支那事変国債の場合は、昭和12年からの約4年間で25回売り出しがあり、1000円券から10円券までの6種類が売り出されました。また、特別報国債券は、額面が1円と少額であったため、別名「まめ債券」と呼ばれました。1円単位のお金まで債券購入に使うことを強いられたのです。
(太田暁子)