平成22年8月10日(火)~平成22年10月3日(日)
1 龍宮寺 |
2 龍宮寺観音堂 |
3 龍宮寺三宝荒神堂 |
14世紀ころの博多(推定図) (本田浩二郎氏の作成図に「長橋」などを加筆) |
福岡・博多の歴史を調べるとき、いまでも基本的文献となるのは元禄(げんろく)16年(1703)に完成した貝原益軒(かいばらえきけん)編著『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』という江戸時代の地誌です。その巻4博多・「袖湊(そでのみなと)」の項には、「いにしへ博多にありし入海を袖湊といふ、…西北の方、今の湊橋ある辺に、長き橋ありて、通路とせり」という記述があります。近年の博多遺跡群の発掘でも、冷泉(れいせん)公園の北側、博多リバレインの一帯は、近世初頭に埋立てられるまでは那珂川(なかがわ)河口の入海であったことが分かっています。その入海に「長き橋」が架かっていたというのです。しかし、「長き橋」について、それ以上のことは書かれていません。
この展覧会では、近世地誌類にほとんど記載がなく、なぞの多い「長き橋」について、文献、考古、美術資料などによって解明していきます。
1 長橋の発見
貝原益軒がいう「長き橋」に関する最も古い文献は、鎌倉時代末期の延慶(えんぎょう)年間(1308~11)、博多の聖福寺(しょうふくじ)第16世住持であった鉄庵道生(てったんどうしょう)が作った『博多八景』(七言絶句)のなかの第3句「長橋春潮(ながはししゅんちょう)」ではないかと思われます。人びとが行き交う「長橋」の春の情景を詠んだもので、「長橋」が海上か、海に近いところに架かっていたことが想像されます。
さらに、室町時代に入ると、筑前を平定した大内政弘(おおうちまさひろ)の奉行人相良正任(さがらただとう)が、博多滞在中に書いた文明(ぶんめい)10年(1478)の陣中日記『正任記(しょうじんき)』のなかに、「当津長橋観音」「当津長橋荒神」の記事が見つかります。当津である博多津に、「長橋」と関係する観音・荒神(こうじん)があったことが分かります。
この観音と荒神に着目して、江戸時代の地誌に当たっていくと、現在の博多の大博通(たいはくどお)り沿い、冷泉町(れいせんまち)にある龍宮寺(りゅうぐうじ)(浄土宗 写真1)に行き当たります。龍宮寺には現在も観音堂(写真2)と荒神堂(写真3)が存在しています。さらに、『筑前国続風土記拾遺』(文化(ぶんか)11年・1814以降成立)によると、龍宮寺は慶長(けいちょう)5年(1600)に現在地に移転し、はじめは「今の楊池社(やなぎがいけしゃ)のあるところにあった」と記されています。楊池社があった付近は、『筑前国続風土記』が記すように、入海があったところに当たります。益軒がいう「長き橋」は、この龍宮寺と関係する「長橋」のことでないかと推測されます。