平成22年8月17日(火)~10月24日(日)
指揮官付のドライバー (昭和30年(1955)撮影) |
4 戦後の米軍基地
米軍基地キャンプハカタ(現海の中道海浜公園)のケネス・リーブマンと米軍板付空軍基地(現福岡国際空港)のロナルド・ビレットの両氏は、それぞれが配属された基地の人びとを撮影しています。
一般に当時みることができなかった板付空軍基地の観閲式や同基地内の工事のほかに、米陸軍第8162病院(現簡易保険事務センター)が撮影されており、興味はつきません。
しかしこうした基地も、昭和45年(1970)の日米安全保障協議委員会において、日本への返還が決定し、昭和47年(1972)には板付空軍基地が、同52年(1977)には米軍基地キャンプハカタが返還され、フクオカの戦後もようやく終わったのかもしれません。
ちなみに、天神の千代田ビルは昭和27年(1952)に、大濠の簡易保険支局(現簡易保険事務センター)は同31年(1956)に、東公園の一方亭は同32年(1957)に、雁ノ巣飛行場は同47年(1972)に、それぞれ返還されています。
バスを待つ米兵(昭和30年(1955)撮影) 西鉄春日原駅横のバス停。 |
観閲式(昭和30年(1955)撮影) 板付基地の滑走路拡張を記念しておこなわれた。 |
日本人の警備兵(昭和30年(1955)撮影) 米軍板付空軍基地の警備をしていた。 |
「もはや戦後ではない」
鳩山一郎内閣は、昭和31年(1956)7月、『経済白書』(昭和31年度版)を発表しました。『白書』は、「回復を通じての成長は終わった」、国民所得や技術革新からみても、「もはや戦後ではない」と宣言しています。
戦後11年、朝鮮戦争から6年。ようやく日本は経済的自立に向かって歩みだしました。経済の「もはや戦後ではない」現象は、政治と文化と社会でもみられることになったのです。
しかし、それでも日本の戦後は容易に終わらなかったのです。例えば、沖縄はなお米軍の占領下にあったからです(昭和47年5月15日に返還)。
「もはや戦後ではない」と宣言されてもなお「戦後が終わっていない」現実を、私たちは思い知らされることになります。
「戦後」は、昭和いっぱい続き、昭和が終わり、平成になっても終わらない。日本は、「基地問題」の重い影をいつまでも引きずったままなのでしょうか。
(鳥巣京一)