平成22年8月24日(火)~10月31日(日)
伝 梅林出土 子持勾玉 |
勾玉(まがたま)は縄文時代に誕生し、弥生時代に定形化しますが、最も盛んにつくられ用いられた時代は古墳時代です。古墳時代には勾玉のほか、玉類や石製の品々が多数つくられました。日本列島で最も石の工芸品が愛好された時代といえます。
古墳時代の石製品は単に装飾品や副葬品として用いられただけではありません。滑石でつくられた石製模造品(せきせいもぞうひん)は、集落や水辺、離島や山などの特別な場所で祭具としても用いられました。玉類が弥生時代の伝統を引くのに対し、石製模造品は古墳時代に新たに創造された石の文化なのです。
玉―伝統の装身具―
石を装飾品として用いる行為は縄文時代にはみとめられ、勾玉の祖型もすでに縄文時代に存在します。弥生時代にはC字形をしたヒスイ製勾玉と細長い碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)という組み合わせが成立します。この勾玉と管玉を装飾品として用いる弥生時代の伝統は古墳時代にも受け継がれます。
福岡平野周辺では勾玉が多数出土する前期古墳は少ないのですが、前期末~中期初頭の古墳とされる老司(ろうじ)古墳と鋤崎(すきざき)古墳からは多くの勾玉や玉類が出土しています。老司古墳3号石室には複数の人間が埋葬されましたが、玉類の多くはそのうちの奥壁近くの被葬者の副葬品とみられます。しかし、玉の出土状況は謎に満ちたものです。玉群Aは勾玉2点と碧玉製管玉のまとまりですが、出土位置は腰の位置と推定され、首飾りではなかったようです。また、玉群Bと玉群Cはそれぞれ腕飾りほどの大きさの一連ですが、裏返した鏡と組になるように出土しています。玉群Dも裏返した鏡とともにあります。生前に用いていた玉類を死者にそのまま身につけさせたのではなく、玉と鏡を用いた死者への儀礼を行っていたことが想像されます。
鋤崎古墳の玉類は1号棺の被葬者の上に振りまいたように出土していて、老司古墳とは違ったやり方で、玉を用いた儀礼が行われていたようです。
弥生時代の伝統を引き継ぐ古墳時代の装飾品に腕輪形石製品(うでわがたせきせいひん)があります。もともとは弥生時代の北部九州で出土するゴホウラ貝を用いた腕輪(貝釧(かいくしろ))がその祖型です。古墳時代前期初め頃までは貝釧は装飾品として用いられていましたが、貝釧の形はそのままに素材を碧玉や緑色凝灰岩(ぎょうかいがん)に替えて作った鍬形石(くわがたいし)や円形の石釧(いしくしろ)に取って代わります。
鍬形石は嘉麻市沖出(おきで)古墳などから出土しますが、福岡平野の古墳からは出土していません。これは弥生時代終末期以来、貝釧の分布する「貝の道」から福岡平野が外れることと関連があるかもしれません。また、円形の石釧(いしくしろ)は佐賀県唐津市谷口古墳や春日市九州大学筑紫地区からも出土しています。
古墳時代前期にはほかにも玉杖(ぎょくじょう)や合子(ごうす)などの石製品が、奈良盆地から伊勢湾沿岸にかけての狭い範囲の古墳に多種多量に副葬されます。老司古墳3号石室からも大型管玉1点が出土していますが、普通の管玉ではなく石製品の範疇としてとらえるべきものかもしれません。
老司古墳3号石室出土 勾玉・管玉(玉群C) |
古墳時代中期になると、今宿古墳群を除いて、福岡平野・糸島半島から大形の前方後円墳が築造されなくなります。それと軌を一にするように、古墳から出土する玉類や石製品が減少します。これは福岡平野周辺だけの現象ではなく、九州の大型前方後円墳も同様に玉類の出土数が減少しています。また、中期古墳である、うきは市月岡(つきのおか)古墳から金銅の帯金具が出土するなど、大陸式の新たな装身具が広まりつつありました。このことも玉類や石製品の減少の一因とみられます。
古墳時代後期には列島全体で群集墳と呼ばれる小型の古墳が多数つくられるようになります。その副葬品として勾玉をはじめとする玉類が用いられ、出土数も増加します。形も勾玉・管玉のほか丸玉・切子玉・棗(なつめ)玉など多様に、素材もメノウや水晶など多彩になります。その一方で支配階級間の差は広がります。群集墳の被葬者の主な装飾品が玉類や金銅装耳環であるのに対し、藤ノ木古墳の被葬者は金銅製冠など朝鮮半島の支配者と同様のきらびやかな装飾品を身につけていました。しかし、7世紀以降古墳が造られなくなるとともに玉類を装飾品・副葬品として用いる風習はすたれていきます。