平成22年11月2日(火)~12月26日(日)
聴取無線電話私設許可書 |
ラジオを聴くための手続き
ラジオを聴くためには、「聴取無線電話私設許可書」というラジオの設置許可書を得なければなりませんでした(ラジオのみの受信契約は昭和43・1968年に廃止)。昭和5年に福岡市内在住で許可申請をした人の書類から、当時、設置許可書を得るためには、設備費として610円、加入登記料として13円が必要であったことが分かります。小学校教員の初任給が50円前後、大学を卒業した銀行員の初任給が70円程度という時代のことです。当時、ラジオを聴取するには、非常にお金のかかる手続きが必要であったことが分かります。さらにラジオは、1台40~50円くらいで、聴取料は月額1円でした。
「時局」とラジオ
昭和10年代に入ると、「時局の認識」のためにラジオを聴取することが奨励されるようになりました。「挙(こぞ)って国防揃(そろ)ってラヂオ」というスローガンを掲げたラジオ普及運動が、陸軍省・海軍省・内務省・逓信省のもとで展開しました。昭和14(1939)年度末には、ラジオは日本の全世帯の3分の1に普及しました。昭和前期で最も契約数が多かった昭和19年の福岡県の受信契約数は25万9612件、普及率は40.8%でした。
戦争が本格化していくと、ラジオから流れる歌謡や演劇も軍事色一色に染まっていき、報道も統制されていきました。防衛上の理由から、気象情報もラジオ番組から消えました。また、本土空襲がはじまると、ラジオは、遠く離れた前線の戦況や国策を伝えるだけではなく、空襲警報を告げるという役割も担うようになりました。
昭和30年発売のトランジスターラジオ(左)と 昭和前期の真空管ラジオ(右) |
戦後のラジオ
戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)は、日本の民主化のためにラジオの活用を重視しました。GHQによる放送番組の検閲は昭和24(1949)年10月まで行われました。昭和26年2月、名古屋で日本初の民間放送局が開局しました。同年12月には、九州初、日本で4番目の民間放送局・ラジオ九州(現・RKB毎日放送)が開局しました。
さまざまな娯楽番組も生まれました。ラジオ劇も数々のヒット作品が誕生しました。中でも昭和27年にスタートした『君の名は』は、放送中に出版、映画化もされ、放送時間になると「銭湯の女湯が空になる」と噂されました。
戦後、最盛期を迎えたラジオですが、昭和二八年にテレビ放送がはじまり(福岡では昭和31年から開始)、家庭での娯楽の中心はラジオからテレビへと移っていきました。一方で、ラジオでは、深夜にリスナーを若者層にしぼった番組を放送し、家族とともに聴くのではなく、手紙や電話でDJとやりとりをしながら個人で楽しむというスタイルが誕生し、若者文化の一翼を担いました。
(太田暁子)