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No.374

考古・民俗展示室

九州考古学の歩み

平成22年11月16日(火)~平成23年1月30日(日)

昭和5年1月23日大阪毎日新聞西部毎日の記事
昭和5年1月23日大阪毎日新聞西部毎日の記事

昭和・戦前


九州考古学会の創設
 そんな気運の中、昭和5(1930)年に、九州帝国大学学生の鏡山猛らが委員となり、九州考古学会が創立されました。
 2月2日に行われた発会式兼第1回講習会では、中山平次郎の「邪馬台国と奴国」と題した講演などがあり、盛会であったようです。創立のことは新聞にものり、大学などに在籍する者だけでなく、小・中学校の教員、会社員など各職種の同好の士が集いました。会員数は80余名、年会費は2円でした。
 活動は見学会、講演会などからなり、最初の見学会は同3月16日に糸島郡小富士村(糸島市志摩)御床(みとこ)松原遺跡で行われます。貨泉(かせん)(中国銭)と弥生土器が出土した遺跡で、発見者の中山平次郎の講話ののち「会員一同、表面採集に時の移るのも忘れた」とあります。それまで各自で行っていた活動を仲間と共有する喜びがあったのでしょうか。活発に野山を動きまわる会であったようです。ちなみに、この日は筑肥線のガソリンカーで加布里(かふり)に着き、漁船を1隻借りて小富士村の海岸に上陸したといいます。


昭和5年1月23日大阪毎日新聞西部毎日の記事
立屋敷遺跡の報告書

立屋敷(たてやしき)遺跡と遠賀川(おんががわ)式土器

 翌年の昭和6(1931)年9月には、弥生土器研究を画期的に前進させる契機となった土器が、福岡県水巻村立屋敷の遠賀川川床で発見されました。発見したのは熱心な会員であった名和羊一郎(なわよういちろう)で、同年の例会で報告し、翌月には見学会が行われています。いち早くこの土器に注目したのは中山平次郎で、それまでに出土していた無紋の土器を第1系、新発見の有文の土器を第2系土器とし、弥生土器に2つの系統を見いだしました。この遠賀川で発見された第2系土器は、昭和7年には近畿地方でも出土することが分かり、「遠賀川式土器」と呼ばれ、やがて稲作文化が九州から東へ伝わったことを象徴する弥生時代前期の土器として位置づけされるようになります。
 九州考古学会が創立してまもなく発見された立屋敷遺跡には、例会でも何度も足を運ぶことになり、特にこの地域の在野研究者の活動は活発になりました。
 この立屋敷遺跡は、遠賀川式土器の中でも古い土器が出土することから、昭和15(1940)年に東京考古学会が主催し、九州考古学会の協力で九州一円から研究者が集まり発掘調査が行われました。この調査は戦前最後の大きな活動となります。その後は戦局が悪化するにつれて学会活動は中断せざるを得ませんでした。


比恵遺跡の状況(昭和13年)
比恵遺跡の状況(昭和13年)

弥生集落の発見


比恵遺跡
 博多駅の南は、現在は平坦な市街地ですが、戦前は低地には水田、丘陵地には野菜畑が広がる田園風景で起伏がありました。ここで昭和8(1933)年頃から区画整理が始まります。丘陵地が削られ、崖面からは甕棺や住居跡の掘り込みが見つかる様になりました。当時九州では、住居跡が崖の断面で見つかりはしても、どのような平面形をしているか確かめられていませんでした。この様子を見た鏡山猛と森貞次郎(ていじろう)は、昭和13年、現場監督に土取りの予定地を地表面(上)からはぐこと交渉し、初めて四角い住居の形を明らかにしたのでした。そしてさらに、住居を方形に囲む1辺30から90mの溝を4つ発見します。後に板付遺跡や吉野ヶ里遺跡で知られる環濠(かんごう)集落が、はじめて確認されたのです。調査は工事が進行する中で、「骨折って掘り出した竪穴は、後から後から土塊となって運ばれてしまう」状況で、地元学校の先生や生徒の応援で行われました。


七田忠志発掘吉野ヶ里遺跡出土土器
七田忠志発掘吉野ヶ里遺跡出土土器

吉野ヶ里遺跡

 弥生時代の環濠集落としてよく知られる佐賀県の吉野ヶ里。この遺跡がある丘陵がはじめて紹介されたのは大正14(1925)年松尾禎作(ていさく)によってでした。その後、昭和9年には、地元神埼出身で中央学会とのつながりがあった七田忠志(しちだただし)が、学会誌に吉野ヶ里遺跡を報告し、大陸との交渉、邪馬台国問題などを考える上での筑紫平野の重要性をいち早く指摘し、学会が十分注目するように訴えています。戦後も松尾と七田は、佐賀地域を中心に多くの考古学的調査研究に携わり、その中心を担いました。七田は高校勤務のかたわら、神埼周辺、特に吉野ヶ里遺跡の調査を続け、生徒にも郷土の誇りとして遺跡を語り伝えました。


熊本と鹿児島の縄文土器

 縄文時代の貝塚が多い熊本平野南部では、大正時代から京都、熊本の研究者による発掘調査・研究が盛んに行われていました。昭和5(1930)年には國學院大学の鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)が御領(ごりょう)貝塚を発掘し、これに刺激を受けた小林久雄や坂本經堯(つねたか)らによって肥後考古学会が設立されました。九州考古学会と同じ年のことです。
 小林は、貝塚が密集する城南町出身で、開業医のかたわら発掘・研究を行いました。昭和6年には城南町の阿高(あたか)貝塚と御領(ごりょう)貝塚の分析を発表し、前者がカキを後者がシジミを主体とすることなどから出土する土器の違いを時代の差と考えました。また詳細な土器の観察は科学者としての洞察が感じられます。昭和14年には縄文土器の編年(順序)の基本をほぼ完成させています。

小林久雄発掘阿高貝塚出土遺物
小林久雄発掘 阿高貝塚出土遺物

 鹿児島県も縄文時代の遺跡が多く、大正時代から調査報告されてきました。その後、地元で先駆的活動を行った研究者に寺師見国(てらしみくに)がいます。開業医の合間をぬっての調査・研究で、短期の発掘と、ほとんどが表面採集によるものでした。昭和18年に組み立てた縄文土器の編年には、土器(型式)名の多くが設定され、現在の基礎となっています。
 熊本の小林久雄とは南福寺(なんぷくじ)貝塚などで一緒に発掘するなどの交流があり、往診の合間に遺跡に立ち寄るなどの共通した逸話があります。2人の周りには地元、遠方から研究者があつまり、この地域の中心的存在でした。

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