平成22年11月16日(火)~平成23年1月30日(日)
九州考古学時報(昭和21年) |
比恵遺跡調査風景(昭和27年) |
比恵遺跡調査員(昭和27年) |
板付遺跡調査風景(昭和26年) |
板付遺跡調査風景(昭和29年) |
戦後
終戦の翌年、昭和21(1946)年5月には早くも再建九州考古学会の例会が催されます。数年ぶりの会合は無言のうちに心を1つに結ぶものであったと言います。そして、活動の軸として、主要な前方後円墳の測量図集成、弥生文化の起源の追求の2本の柱がたてられます。それは、自分たちの心を埋めようとしていたのかもしれません。
日頃の活動として頻繁に例会が行われ、調査をかねた遺跡見学、総会での発表などがありました。昭和24年には、それまで調査・蒐集された遺物を集めた福岡県古代文化展が開催され、その写真と解説からなる『九州古文化図鑑』は、学会の総力を集めたものでした。
また、昭和30年代までの発掘調査の写真を見ると、学生が多く参加していることが分かります。学会員の教員が勤務する中・高校ではクラブ活動として発掘に参加し貴重な戦力となっていました。
「西の登呂」
昭和24(1949)年からは、大分県国東町の安国寺遺跡での調査が始まります。弥生時代後期の低湿地農村集落の姿が明らかにされ、おびただしい量の木器や土器などの遺物が出土しました。おりしも静岡県登呂(とろ)遺跡の調査と重なり「西の登呂」と呼ばれ、戦後の再興を象徴して一躍脚光を浴びました。調査を担当したのは比恵遺跡を調査した鏡山猛と大分の賀川光夫で、これに九州各地から考古学者が集まり、その後の低地・集落遺跡の調査に影響を与えました。また、地質学、植物学の専門家が参加した総合的な調査でもありました。
弥生土器の起源を求めて
戦前に遠賀川式土器に求められた弥生土器の起源を探る研究は、遠賀川式土器と縄文土器の接点の追求に関心が寄せられていきます。
当時は九州の縄文時代終わりの土器がわかっておらず、唐津市柏崎(かしわざき)採集の刻目突帯をもつ土器が注目されていました。昭和25(1950)年、この土器(後の夜臼(ゆうす)式)が遠賀川式土器と一緒に福岡市板付(いたづけ)のゴボウ畑で発見されます。発見したのは地元の研究者で周囲の遺跡を丹念に探索していた中原志外顕(しげあき)でした。この発見は福岡、東京の考古学者を動かし、森貞次郎、岡崎敬(たかし)らにより4年にわたる発掘調査が行われました。
この板付遺跡の調査では、縄文時代最後の夜臼式土器と板付Ⅰ式と名付けられた弥生時代最古の土器が一緒に出土し、さらに炭化米・大陸系の石器が出土して、弥生時代はじまりの農村に弧状の溝(環濠)があることが明らかになりました。
縄文土器と弥生土器の接点が明らかになると、次に弥生文化が縄文文化のなかからどのようにして成立するかが問題となります。そこで注目されたのが、長崎県島原半島の山間で開墾中に発見された原山(はらやま)遺跡や山ノ寺遺跡でした。昭和31(1956)年以降、森貞次郎らが調査を行った原山遺跡からは、朝鮮半島系の墓である支石墓(しせきぼ)が45基出土し、夜臼式と同様の土器には籾(もみ)圧痕が確認されました。また、山の寺遺跡ではそれより古い土器から籾圧痕が見つかり、農耕文化が縄文時代にさかのぼる可能性が出てきたのです。ただし、大陸系の農耕具は出土せず、縄文時代晩期の水田は昭和50年代の板付遺跡での発見を待つことになります。
三津永田遺跡出土人骨 |
弥生人の起源
昭和27、8年、佐賀県の吉野ヶ里遺跡と同じ丘陵にある三津永田(みつながた)遺跡で、工事中に甕棺から鏡等の副葬品と共に39体の人骨が出土しました。それまで弥生時代の人骨の資料は少なく、初めてのまとまった資料です。この人骨を調査した九州大学医学部の金関丈夫(かなせきただお)は、同じ年からの調査で出土した山口県土井ヶ浜遺跡出土人骨とあわせ、憶測と断った上で、弥生文化と共に半島から相当の人数が渡来したという説を発表しました。この渡来説については、その規模、時期など今日も議論が続いていており、その先駆的な研究でした。しかし、調査できた甕棺はごく一部で、多くは工事中に壊されるという厳しいものでした。
倭人伝の道
昭和23(1948)年からは東亜(とうあ)考古学会による対馬、壱岐、唐津地方の調査が行われました。いわゆる「倭人伝の道」を探求するもので京都大学の研究者に九州の考古学者が加わりました。対馬では戦時中は要塞(ようさい)地域として受けていた厳しい制約から解放された喜びと、劣悪な食糧事情の中、全島的に調査が行なわれました。そして不明だった縄文時代の存在や、日本の文化圏に属しながらも半島からの文化を受け入れていた対馬の特徴を示しました。
壱岐では昭和26(1951)年から原(はる)の辻(つじ)、カラカミ遺跡などの調査が行われ、鉄器、貨泉(中国銭)、楽浪(らくろう)土器など大量の土器等が出土し、大陸との関係を具体的に示し、弥生文化の視野を拡げることになりました。
昭和31・32(1956・57)年の佐賀県唐津周辺(「末盧國(まつらこく)」)での調査では、宇木汲田(うきくんでん)遺跡の甕棺墓から多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)をはじめとする副葬遺物が出土したことが特筆されます。昭和40・41年には九州大学とパリ大学を中心とした日仏合同調査が行われ、宇木汲田遺跡などで甕棺・貝塚が発掘されました。フランス流の調査技術も試され、人類学・農学・地質学などの協力を得た学際的なものでした。
『九州考古学』第2号挿図活版 |
昭和30(1955)年頃になると、九州考古学会ではしだいに例会が開かれなくなり、年2回の西日本史学会に共催する形で存続することになります。昭和32年には会誌『九州考古学』が創刊されます。1号には前年に福岡県若宮町で発見された装飾古墳竹原古墳などが誌面を飾りました。会の形態は時の流れのなかで成長していきます。また、昭和33年には九州大学に九州では最初の考古学科が開設され、学会の支援がその実現につながりました。
同じ頃、開発の規模が次第に大きくなり遺跡への影響も大きくなっていきます。学術目的の調査より、開発の事前調査の数が増加し、行政に文化財担当の体制が少しずつ整い、発掘現場を取りまく風景も変わっていきます。また、県単位での学会活動も活発になってきます。このような変化に考古学・遺跡に集う人々のあり方も変化したように思われます。
(池田祐司)