平成22年12月21日(火)~平成23年2月13日(日)
photo.1 般若 |
photo.2 般若裏面(部分) 焼印「天下一備後」 |
photo.3 長霊べし見 |
photo.4 長霊べし見裏面(部分) 焼印「天下一近江」 |
江戸時代、能は、将軍の即位といった当時の一大セレモニーや大名各家のお祝い事、お客のおもてなしといった場に欠かせない芸能でした。能の催しに必要な能面、装束(しょうぞく)、楽器などは、能を演ずる役者だけでなく、能を催す側でも相当数を備えておかなければなりませんでした。それゆえ、江戸時代には、膨大な数の能面や能装束が、将軍家や大名家からの注文で製作されていたのです。こうしたニーズに応えていたのは、代々、それを家業とする人びとでした。
能面をつくることは、古くから「彫る」ではなく「打つ」と言われ、能面を製作する人のことを「面打(めんう)ち」と呼びました。この展示では、所蔵の能面をとおして、江戸時代の面打ちの活躍を紹介します。
江戸時代の面打ちについて詳しく書き記した人に、喜多古能(きたふるよし)(1742~1829)がいます。古能は、能役者で、喜多流を率いる9代目の大夫(たゆう)。能面の目利(めき)きであり、鑑定にも携わっていました。「仮面譜」(寛政9年/1797)など、彼がものしたいくつかの著作によれば、面打ちの家には、越前出目(えちぜんでめ)家、大野出目(おおのでめ)家、井関(いせき)家があり、さらに越前出目家から児玉(こだま)家、弟子出目(でしでめ)家という2つの家系が分かれたことになっています。
photo.1は、般若(はんにゃ)の能面です。面の裏には、四角い焼印が見え(photo.2)、「天下一備後」とあります。これは、出目満喬(みつたか)という面打ちが用いた印です。出目満喬は、寛永12年(1635)の生まれで正徳5年(1715)に没したといわれます。元々面打ちの家に生まれたわけではなく、出身地も実家の生業が何だったかも分っていません。ともかく彼は、江戸において、出目満永(みつなが)という面打ちのもとで、面打ちとしての修行をはじめました。1人前になる前の名前は加兵衛といったようです。
加兵衛(のちの満喬)の師・出目満永は、越前出目家の惣領です。この家は、越前にいた満永の曾祖父にあたる面打ち・出目満照(みつてる)に始まります。満永の代に越前を離れて江戸に移り、幕府の御用を一手に引き受けるようになりました。長い伝統があり、経営も安定している満永の工房には、面打ちとして身を立てようとする人々が多く弟子入りしており、加兵衛もその1人だったと考えられます。
ところで、加兵衛の先輩弟子に満昌(みつまさ)という人がおりました。この人も面打ちの家の生まれではありませんが、非常に優れた腕前をもって工房を大いに盛り立てていました。photo.3は、満昌の手になる長霊べし見(ちょうれいべしみ)という能面です。裏側には、彼の用いた「天下一近江」の焼印が見えます(photo.4)。満昌は、男子がいなかった師匠・満永の養子となり、越前出目家を継ぐ予定だったのですが、結局、そうはならずに江戸を出て京都に上り、姓を児玉(こだま)という元のものに戻して自分の工房をかまえます。これは、師の満永が晩年になって実の男子に恵まれ、その子を跡取りにしようと満昌との養子縁組を解消してしまったためといわれます。また、離縁の背景には、満昌が、腕がたつうえにライバルであった近江(おうみ)(現在の滋賀県)出身の面打ち・井関家重(いせきいえしげ)の作風を学んでいたことで、満永の不興を買っていたことも挙げられています。