平成22年12月21日(火)~平成23年2月13日(日)
photo.5 邯鄲男 |
photo.6 邯鄲男裏面(部分) 焼印「出目庸久」 |
photo.7 邯鄲男 |
photo.8 邯鄲男裏面(部分) 焼印「出目満真」 |
さて、満永が男子を授かったのは、加兵衛が17歳頃のことです。満永が満昌との養子縁組を解消してしまったのが具体的にいつなのかはっきりしませんが、加兵衛は、あるいは、その時はすでに1人前の面打ちとして師から1文字をもらった満喬の名を名乗り、越前出目家の工房を支える存在であったかもしれません。しかし、満喬は、出目姓を捨てた先輩の満昌にしたがい、自分も越前出目家を出て、京都にいってしまいます。血筋優先の師匠家より、腕のたつ先輩の新興工房にうつったほうが自分の利になると考えたのでしょうか。児玉満昌は、そのまま京都を離れることなく宝永元年(1704)に没します。満喬のほうは、京都でしばらく活躍したのち、満昌の死と前後する頃、江戸にカムバックします。当時、江戸には、満永の子・満茂(みつしげ)が率いる越前出目家のほかに、大野出目家と呼ばれる面打ちの家がありました。この家は、やはり越前出身で大野(現在の福井県大野市)というところに住んでいた出目吉満(よしみつ)という面打ちに始まります。吉満は、豊臣秀吉に気に入られ、「天下一」と名乗ることを直々に許されるほどの腕前の優れた人でした。しかし、息子は今一つぱっとせず工房を衰退させたのでしょうか、孫の代にいたっては、ほとんど面打ちに携わっていなかったようです。江戸に出てきた出目満喬は、この人の養子となって家督をつぎ、大野出目家の工房を率いる存在となりました。
満喬が面打ちとして活躍したのは、ちょうど、稀代の「能狂い」といわれ、空前の能フィーバーをもたらした5代将軍綱吉の時代です。各大名家も能を重んじ、道具のあつらえもさかんだったはずですから、面打ちにとって良い時代だったことでしょう。満喬が継いだ大野出目家は、かつて修業した越前出目家や、ほかの面打ちの工房より抜きん出て栄えたようです。満喬は、元禄9年(1696)、還暦を過ぎた頃、家督を実の子供・満毘(みつのり)に譲りました。
綱吉の時代に家督を継いだ満毘が没し、息子が家督を継ぐことになったのは享保14年(1729)、すなわち行き過ぎた能愛好を良しとしない8代将軍吉宗の時代でした。満毘は、綱吉時代の能の活況は、それほど続かないことを予見していたのでしょうか。父の満喬ゆずりの目端のきくところを発揮し、特定のお得意さまの獲得につとめたようで、能面愛好家として知られる鳥取藩3代藩主・池田吉泰(いけだよしやす)に、子の満猶(みつなお)の代にわたるまで、多数の能面を納入していました。
満猶の子、庸久(やすひさ)の代になると、さしもの大野出目家の繁栄にもかげりが見えてきます。7代目を数える庸久は、延享3年(1745)、30歳前後で、家督を譲り受けますが、その頃はもう祖父や父のように上客を獲得できなかったうえに、当時の観世大夫(かんぜたゆう)・元章(もとあきら)との関係を損ね、「大野出目家は洞白(満喬のこと)以来、ニセ物をつくっている」と言いふらされたりしています。photo.5は、彼の打った能面・邯鄲男(かんたんおとこ)で、面裏には「出目庸久」(photo.6)の焼印が見えます。
さて、photo.7は、同じく能面・邯鄲男。こちらの面裏には「出目満真」の焼印があります(photo.8)。出目満真(みつまさ)は、越前出目家の7代目にあたり、おそらく享保16年(1731)の生まれ。大野出目家の7代目・庸久と比べると15、6歳年下になります。満真が率いる越前出目家は、大野出目家にくらべて、家勢はふるいませんでしたが、彼自身は、なかなか腕の立つ面打ちだったようです。冒頭で触れた能面の目利き・喜多古能は、「面目利書」という著作のなかで、越前出目家代々の面打ちの技量について「下作」だの「じじむさし」だの「むさき方なり」だの、かなりの辛口コメントを連発しています。しかし、満真については、「細工善し」と腕前をほめ、越前出目家の「中興と云うべし」と評しました。古能は、その理由として、満真が児玉満昌、すなわち優れた腕前を持ちながら越前出目家から袂を分かった面打ちの作風にも学んでいるからだという私見をつづっています。
(杉山未菜子)