平成23年1月12日(水)~3月6日(日)
絵はがき「西公園日清日露戦捷紀念碑」 |
加藤司書の歌碑 |
「加藤司書公銅像」と刻まれていた石柱 |
「福岡縣第一大區有志者」寄進の鳥居 |
姿を消した記念碑
西公園の中央駐車場近くの山頂部の広場(荒津の丘 いこいの広場)には、現在、西公園開園百年を記念して、昭和57(1982)年に建設されたあずまやがあります。他には、「鎮魂義捐金人名」と刻まれた柱状の石碑が2本ならんでいますが、鳥瞰図に描かれた記念碑は見あたりません。
『碑誌』によれば、この場所には「日清戦役碑」「日露役紀念碑」「吉岡大佐銅像」がありました。これらは、平野国臣像と同様に、戦争中の金属回収で撤去されました。広場の隅には、昭和51年に公園整備にあたり、福岡県が残っていた台座を撤去したことを記した碑があります。
台座だけが残った ― 加藤司書(かとうししょ)像 ―
鳥瞰図には描かれていませんが、戦前の福岡の絵はがきにも登場する西公園の銅像に、加藤司書像があります。加藤司書(1830~65)は、幕末の福岡藩で家老をつとめ、三条実美(さんじょうさねとみ)ら勤王派の公家7人を太宰府に迎える(七卿落ち)など、福岡藩の勤王派のリーダーともいえる人物です。「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は……」ではじまる筑前今様(いまよう)の作者としてもよく知られています。
銅像は、やはり戦争中の金属回収で撤去され、台座だけが残されました。昭和40(1965)年、この台座は「皇御国の武士」の歌碑に再生され、現在も、銅像がかつてあった場所に残っています。「荒津の丘」から光雲神社裏手の高台へつづく小道の脇には、かつては「加藤司書公銅像」と刻まれていた石柱が立っていますが、現在は、「銅像」の文字がセメントで埋められています。
光雲神社の鳥居
神社の境内には、意外に記念碑があるものです。「碑」というイメージとは少しずれますが、鳥居や灯籠、玉垣などにも、それらを寄進した人びとの名前が刻まれ、地域の歴史の一端に触れることができます。
光雲神社は、西公園の中にあり、福岡藩の藩祖である黒田如水(じょすい)と初代藩主の長政(ながまさ)父子を祭る神社です。元々は福岡城内にありましたが、廃藩置県で藩主の黒田家が東京へ移り、福岡城を明け渡す際に、吉祥院跡(福岡市中央区天神、警固神社境内)に移転し、さらに、明治40(1907)年に現在地に遷座しました。昭和20(1945)年6月の福岡大空襲で焼失し、現在の社殿は昭和41年に再建されたものです。
境内に入る際にくぐる鳥居は、明治8年に「福岡縣第一大區有志者」が建立したものです。この「第一大区」というのは、明治初期の行政区分です。何度も統廃合が行われましたが、明治8年の「第一大区」はいわゆる「博多部」と「福岡部」の福岡部にあたります。このように、ごく短い間だけの行政区分の名称が見つかることもあります。(太田暁子)