平成23年2月15日(火)~4月10日(日)
荒巻行厚像(部分) |
はじめに
「武士」とは武を職能とする集団、もしくはその構成員を指す言葉です。つまり、武力をもって朝廷・幕府などの公権力や主君に奉仕することが武士の本来のつとめなのです。
しかし、慶長(けいちょう)8(1603)年に江戸幕府が開かれて以降、武士は本来の軍事的役割に加え、領国や領地を統治する政治的役割を担うようになりました。さらに江戸中期以降、幕府や藩の行政機構が拡大・細分化されていくと、政治的役割が武士のつとめの中心となっていきました。
本展覧会では、江戸時代、福岡藩主黒田家(くろだけ)の治世を支えた武士にスポットをあて、彼らの仕事や生活の実像について紹介します。
福岡藩の家臣団
はじめに福岡藩の家臣団について概観してみましょう。まず、家臣団は知行取(ちぎょうとり)と切扶取(きりふどり)に分けられます。知行取とは知行地(領地)を与えられる家臣のことです。江戸初期、知行地の支配は年貢米の決定・徴収や百姓の使役など、自由に行うことが許されていましたが、延宝(えんぽう)元(1673)年以降は自由な支配が停止され、藩の制限が次第に加えられるようになり、江戸中後期には年貢米も一定額に定められ、百姓の使役も禁止されるようになりました。一方、切扶取は藩の蔵から俸禄米を与えられる家臣のことです。俸禄米の支給方法には切米(きりまい)と扶持米(ふちまい)の区別があることから切扶取と呼ばれました。切米は年3回に分けて俸禄米が支給されることです。一方、扶持米は毎月末に俸禄米が支給されることで、1日5合の割合で日建て計算され俸禄米が支給されます(1人扶持の場合)。俸禄米の支給高は、切米は石高、扶持米は何人扶持と表され、併せて「20石6人扶持」のように表記されました。
江戸時代も家臣団は軍団組織を基本として構成されていました。軍団は備(そなえ)と組(くみ)によって構成され、大身家臣である中老(ちゅうろう)(家老になれる家格の家臣のこと)は自らの家臣を率いて備を編成しました。それ以外の家臣団は組に編成され、大組(おおぐみ)、馬廻組(うままわりぐみ)、無足組(むそくぐみ)、城代組(じょうだいぐみ)、鉄砲組(てっぽうぐみ)(鉄砲足軽を編成)、船組(ふなぐみ)(船手を編成)、側筒組(そばつつぐみ)(藩主の護衛をする鉄砲足軽を編成)、陸士組(かちぐみ)(藩主の護衛をする歩兵を編成)などの組を編成しました。備と組の編成は家臣団の知行高・切扶高と対応していました。享保(きょうほう)18(1733)年以降は、中老は知行高2000石以上、大組は600石以上2000石未満、馬廻組は100石以上600石未満、無足組は切扶高20石6人扶持前後、城代組は10石3人扶持以上20石6人扶持未満の家臣で編成されました。前述の知行取・切扶取の区別で言えば、中老、大組、馬廻組が知行取の家臣、無足組、城代組が切扶取の家臣で編成されていました(鉄砲組や側筒組なども切扶取の家臣で編成)。
備・組編成は家臣団の家格(かかく)とも対応していました。家臣団には士分(しぶん)と卒分(そつぶん)という藩主への謁見が許されるか否かの区別があり、中老から城代組までは士分、側筒や陸士などの家臣は卒分とされました。藩主への謁見(礼式)には直礼(じきれい)、半礼(はんれい)、無礼(むれい)の区別があり、直礼は正月の年頭御礼で藩主に謁見できる格式で士分の家臣のこと。半礼は年頭や五節句などに福岡城内の御館に出向いて名付帳(なつけちょう)に記名する格式で、藩主が本丸にあった水鏡(すいきょう)・聖照権現(せいしょうごんげん)(藩祖黒田孝高(くろだよしたか)と初代藩主黒田長政(ながまさ)を祀る)を参詣する際、廊下を通るところで謁見が許され、卒分の家臣のうち陸士・側筒などのことを指します。無礼は藩主に謁見できない格式で足軽・郷夫・小人・小役人などを指します。
このように福岡藩の家臣団は、知行高や切扶高を基準として軍団(備・組)に編成され、俸禄米の支給方法や礼式など様々な基準によって区分されていました。では、福岡藩の家臣団の規模、人数はどの程度だったのでしょうか。福岡藩の家臣団を知る上で参考になる資料に分限帳(ぶげんちょう)があります。分限帳は、士分の家臣の知行高・切扶高を記載した帳面で、給与台帳や行政組織の把握など様々な目的に応じて江戸時代を通じて作成されました。天保(てんぽう)7(1836)年成立の「諸士分限帳」(永田収資料・当館蔵)には、中老以下の士分の家臣(部屋住を含む)1729人が記載されており、末尾に陸士や側筒、足軽など卒分の家臣が5000人いたことが記され、総計で6729人の家臣がいたことが分かります。また万延(まんえん)元(1860)年の「福岡藩家中分限帳」(『福岡県史資料』第9輯所収)には知行取の家臣737人が記載され、末尾に切扶取の家臣が5067人いたことが記され、総計で5804人の家臣がいたことが分かります。以上から、江戸後期、福岡藩には6000人前後の家臣がいたと考えられるのです。