平成23年2月15日(火)~4月10日(日)
武士の履歴書
それでは、福岡藩の家臣の一生について、いくつかの段階に分けて見てみましょう。
家臣の多くは、まず父親などから家督を継いだ後に出仕(しゅっし)することで藩士としての人生をスタートさせます。嫡男であれば、父親の隠居もしくは病死により家督を継いで出仕する場合が多く、部屋住(家督を継ぐ以前の段階)のまま出仕するケースもありました(この場合、後に家督を継ぐ)。次男以下の場合、他家へ養子に出されて養家の家督を継ぐケースが多く、嫡男が亡くなったり廃嫡された場合、その跡をうけて家督を継ぐ場合もありました。また、嫡男が家督を継ぐ際に分家を許されるケースもありました。
出仕した家臣は、知行高や扶持高に対応した軍団組織に編成されました。この軍団組織を基準として、福岡藩が佐賀藩と隔年交代で勤めた長崎警備や福岡藩領内の警備(領内にある諸島の警備、国境の旅人改など)、参勤交代の御供、福岡城内の警備、福岡城下の門番など、番方(ばんかた)と呼ばれる武官としての職務を勤めました。
番方に対して政治・経済など行政関係の役職を役方(やくかた)と言いました。江戸初期の行政組織は蔵入地(くらいりち)の年貢収納を担う代官を除いて、ほとんど体系化されていませんでしたが、江戸中期以降、政治・経済が多様化し重要性を増すのにともない整備が進み、藩政は行政組織を中心に運営されるようになりました。
福岡藩では財用方(ざいようかた)や郡方(こおりかた)、町方(まちかた)、浦方(うらかた)など支配筋ごとに行政組織が整備されました。例えば藩財政を掌る財用方には裏判役(うらはんやく)や勘定奉行など、農村支配を行う郡方には郡奉行や山奉行など数多くの役職が設けられました。家臣は軍団組織に所属する一方で、能力に応じて役方の役職に任じられました。とくに藩政の実務を担った中級家臣の場合、頻繁に役替えが行われ、数多くの役職を経験しました。しかし、すべての家臣が役方の役職に就いたわけではなく、番方のみを勤めた家臣も多く存在しました。また、家臣のなかには、専門的な技術によって藩に仕える者もあり、一般の家臣とは区別して「家業(かぎょう)」と呼ばれました。家業は世襲が許され、代々家職として儒学者や医者、御用絵師など専門の役職を担いました。
藩士としての終点は家督を譲ることと言えるでしょう。病気や老衰を理由に自ら隠居して家督を譲る場合もあれば、家督を譲る前に亡くなる場合もありました。有能な人材であれば、隠居した後も再び出仕を命じられ、役職を勤めるケースもありました。
(髙山英朗)