平成23年4月12日(火)~6月5日(日)
廻船絵馬(福岡市有形民俗文化財) |
大日本道中細見図(九州西海道部分) |
博多湾岸の産業と様々な交易船
ところで海を巡る産業に製塩があり、古来から姪浜(めいのはま)などが有名です。製塩業は塩田にする広い土地が必要なため、場所自体は浦の管轄ではありませんが、奈多(なた)などでは藩と博多商人の大がかりな塩田(えんでん)造成による製塩業が盛んでした。江戸時代の中ば以後、それらの産物を盛んに運んでいったのは、当時、商船、あるいは五十集(いさば)などと呼ばれ、近海航路を頻繁に行き交っていた中型、小型の廻船です。とくに姪浜の港には中国・四国地方などからも他国の廻船が、筑前の米や塩を求めて集まり、住吉神社などが航海の神様として栄えました。しかし湾の入り口の志賀島の弘(ひろ)浦など、難所の有るところでは、他国の廻船が遭難することも多く、その救助や後始末のために船頭や浦庄屋などの役人が作成した証文等が数多く残されています。
博多沿岸の漁業
博多湾の中央部から東側の浦では、遠浅の砂浜に適したひき網による漁業が盛んに行われました。その中心は姪浜や箱崎(はこざき)といわれ、その様子は箱崎の浦庄屋で、のちに浦大庄屋格も勤めた山崎家にのこされた古文書で窺えます。また志賀島の弘浦では、網漁だけでなく、磯などでの釣り漁も盛んでした。そのため博多湾の浦々で取り決められた当時の漁場の協定の図面や、取り決め書が浦役人によって作成されました。漁船新調のための、今でいう補助金申請などの書類も残されています。
このようなる暮らしのなかで、人々は蛭子(えびす)(恵比寿)様を海の神、豊漁の神として祀りました。その姿などを描いた摺(す)り物が浦々には配られており、その版木が残っています。また浦役人では筥崎宮などに大漁祈願の連歌を奉納することもありました。
玄界灘の捕鯨と博多湾
江戸時代の最も勇壮な漁業といえば捕鯨(ほげい)業でしょう。博多湾外の小呂島(おろのしま)では、江戸中期には鯨組による捕鯨が行われましたが、余りふるいませんでした。博多湾では、漂着したり迷い込んだりした鯨などを食料にしたこともあったようですが、むしろ平戸(ひらど)藩の生月(いきつき)など、他の捕鯨の盛んな所から、博多に鯨油が移入され、稲の害虫を退治するために利用されました。また当時鯨肉は贈答品に使われ、福岡藩の有名な儒学者の亀井家には、贈答のお礼の手紙などが残されています。
○常設総合展示室では、五ヶ浦廻船関係の資料として、江戸時代後期の標準的な廻船(千石船)の模型のほか、幕末の能古島の廻船で使用された船道具(和磁石、香時計)などを展示しています。本展と合わせて、ぜひご覧ください。
(又野誠)