平成23年6月7日(火)~ 7月24日(日)
「愛国行進曲」を歌う子どもたち (『写真週報』創刊号 昭和13年) |
昭和20(1945)年6月19日深夜から翌20日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)による爆撃をうけ、博多部など福岡市の中心部は焼け野原になりました。福岡市博物館では、開館以来、この「福岡大空襲の日」の前後に「戦争とわたしたちのくらし」展を開催してきました。毎回さまざまなテーマで展示をしてきたこのシリーズも今年で20回目です。
今回は、「少国民(しょうこくみん)」に注目します。「少国民」とは「年少の国民」という意味で、子どもたちのことを指します。「小国民」とも書きましたが、昭和17年2月に日本少国民文化協会が発足すると、雑誌なども「少国民」と表記するようになりました。戦時下に、子どもたちに対して行われた教育をふり返り、あらためて「戦争と平和」について考えるきっかけにしていただければと思います。
小学校から国民学校へ
昭和16(1941)年4月、それまでの小学校が国民学校に改組されました。尋常小学校が国民学校初等科(修業年限6年)に、高等小学校が国民学校高等科(修業年限2年)に改称され、学習する教科も国民科(修身・国語・国史=日本史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(武道・体操)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫)の4教科にまとめられました。
そして、何よりも重要なのは、初等教育の目的が変わったということです。
小学校では「児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クル」(小学校令第1条)こと、つまり、国民として生きていく上で必要な知識や技能を身につけさせることが初等教育の目的でした。それに対して、国民学校では「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(国民学校令第1条)こと、「皇国民の錬成」こそが教育の目的となりました。
福岡大空襲で焼失したため手書きで書き写した教科書 『初等科国語 八』への「墨ぬり」(昭和20年) |
墨ぬり教科書
昭和20(1945)年8月15日に戦争が終わると、学校での教育はがらりと変わりました。9月20日、文部省は従来の教科書から軍国主義や国際和親を妨げる教材の削除を指示しました。また、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、教科書からの神道教義関係の記述の削除、修身・日本史・地理の授業停止と教科書の回収を指令しました。翌年1月25日、文部省はGHQの承認をえて、国語と算数の教科書について削除修正箇所の表を各都道府県に通知し、本格的な「墨ぬり」がはじまりました。
右上の写真は、福岡大空襲で教科書をなくしてしまった奈良屋国民学校(現・福岡市立博多小学校)の6年生が、鉛筆で書き写した国語の教科書の目次です。おおよそ半分の項目が墨でぬりつぶされています。◆印が消された単元です。
- 1 玉のひびき
- 2 山の生活二題
- ◆ 3 タバオへ
- 4 孔子と顔回
- 5 奈良の四季
- ◆ 6 万葉集
- 7 修業者と羅刹
- ◆ 8 国法と大慈悲
- ◆ 9 母の力
- 10 鎌倉
- 11 末広がり
- ◆12 菊水の流れ
- ◆13 マライを進む
- 14 静寛院宮
- ◆15 シンガポール陥落の夜
- ◆16 もののふの情
- 17 太陽
- 18 梅が香
- 19 雪国の春
- ◆20 国語の力
- ◆21 太平洋
昭和21年度からは暫定教科書が使用されることになりました。暫定教科書は、従来の教科書のなかの削除をまぬがれた内容をまとめたもので、ページ数も少なく、装丁も粗末なものでした。8月1日以降は暫定教科書が届かない間は認められていた「墨ぬり教科書」使用が一切禁止されました。
そして、昭和22年4月、6・3・3制の新たな学校制度が発足し、国民学校の時代は終わりました。「少国民」たちは、大切に扱わなければならなかった教科書に墨をぬったり、夏休みの前までは「絶対」であったはずのことが否定されたり、ある意味、最も強く「変化」を体験した国民でもありました。