平成24年6月5日(火) ~8月12日(日)
慰問袋を用意する家族(『写真週報』253号所収) |
軍事郵便
戦地の将兵が内地の近親者あてに発信する手紙や、戦地の将兵あてに内地から出す郵便物は、軍事郵便として一般の郵便物とは区別されました。戦地からの郵便物は無料、戦地あての郵便物は国内郵便と同じ料金で配達されました。
軍事郵便は、プロイセン(ドイツ)がナポレオン3世の第二帝政下のフランスに勝利した普仏戦争(1870~71)で、ドイツ軍が世界で初めて設けた制度です。日本でも、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)で導入されています。日清戦争期には1239万9900通、日露戦争期には4億5812万9424通が取り扱われたといいます。第二次世界大戦中に取り扱われた軍事郵便の数は正確には分かりませんが、昭和12年から16年の間は推計で年間4億通もの軍事郵便があったそうです。これは当時の全郵便物の約1割にあたります。
慰問文と慰問袋
戦地の将兵にあてて慰問文や慰問袋を送ることは「銃後のつとめ」として奨励されました。出征した家族や友人・知人など特定の個人あてに手紙を送るのは勿論ですが、学校や町内会などから見知らぬ「兵隊さん」へ慰問文や慰問袋を送ることもありました。昭和14年に福岡県が発行した「銃後後援実践事項」でも「出征軍人に対し慰問状・慰問袋を送りませう」と呼びかけています。
物資不足が深刻化する以前の昭和10年代前半頃までは、デパートなどで予算に合わせて送る物も揃えることができ、慰問袋用品の売り出しなどもあったようです。慰問袋には、日用品や食料品、嗜好品、本などが入れられました。しかし、「兵隊さん」が喜ぶのは、手作りの品や手紙など「真心のこもった」ものであると、さかんに宣伝されました。少女向け雑誌の附録に慰問用のマスコット人形の型紙がついてきたり、政府が発行する雑誌に、「兵隊さん」を思って慰問袋を用意する家族の写真が掲載されたりしています。また、国民学校初等科(昭和16年に小学校を改称した初等教育機関。昭和22年に小学校に復帰。)の教科書にも、家族で慰問袋を用意するという内容の教材が採用されています。
戦地から故郷への便り
戦地から故郷へと出す手紙にも検閲がありました。出された時期や、検閲を担当した人によって、その厳しさについては差があります。しかし、部隊の編成や人員、現在いる場所や、作戦に関わるようなことは必ず秘匿事項で、これは新聞や雑誌の報道も同じでした。
戦地からの手紙には、家族や故郷を思う気持ちがにじみ出ています。そして何より、戦地からの便りは、前線の兵士にとって「生きている」ことを直接近しい人びとに知らせることのできる唯一の手段でした。
(太田暁子)