平成24年6月5日(火) ~8月12日(日)
博多風俗画「軒灯の火とぼし(部分)」 |
何気ない日常
大事件や大災害などは、みなさんはしっかりと覚えているでしょう。それは、普段の生活とは異なり、気にしないわけにはいかないし、新聞やテレビの報道によって、繰り返され、しっかりと記憶されるからです。対して、私たちの毎日の生活に目を向けてみると、個人的であまりに何気なく、わざわざそれを記録することもありません。実は、過ぎていく日々は、着実に変化を生んでることに気づかずに過ごしているのです。かつて農村と町では、日常の変化の速度も異なりました。とくに町部では、近代化や都市化により街路(がいろ)の環境が急変し、人々の生活も変わっていきました。
祝部至善と博多風俗画
町の変化の一瞬を記憶にとどめ、絵にして後世に伝えた人に祝部至善(ほうりしぜん)がいます。彼は明治15(1882)年に旧博多中島町(なかしままち)に生れ、大正12(1923)年に、博多の櫛田神社(くしだじんじゃ)前にあった櫛田裁縫専攻学校の3代目校長を務めた人です。小学校卒業後に町絵師の野方一得斎(のかたいっとくさい)に日本画を、青年期に蒙古襲来の油絵で知られる矢田一嘯(やたいっしょう)について洋画を習い、東京に出て、大和絵を松岡映丘(まつおかえいきゅう)から習った生粋の博多の者でした。松岡映丘は、「歴史風俗画会」に参加し、大正10(1921)年に「新興大和絵会」を創立した画家です。日本民俗学の創始者柳田國男(やなぎたくにお)の弟でもありました。民俗学は日常を科学する学問であり、祝部至善の風俗画が、地味な日常である褻(け)を描き出し、一方では祭りや祝いなど晴(はれ)の行事を描き分けているところなど、なにか民俗学との接近を感じるものがあります。
祝部至善は、昭和28(1953)年から、明治の博多における街路の風俗を描き始めます。多くは昭和30年代に制作されたものと思われますが、その動機には、戦災で様変わりした自分の故郷(旧博多中島町)の街路の日常を後世に伝えることにあったと思われます。彼は「博多を語る会」にも参加しており、記憶を語りで後世に伝えることと、風俗画を描くことがほぼ同時にされていたようです。
酒屋の樽取り 稽古もどりの娘の相合傘 |
後世に記憶を伝える
ここで後世に事柄を伝える方法を振り返ってみましょう。
事件や歴史を記録するには、まずは文字記録があります。詳細な記録は事件などを思い起こすには重要な資料となります。また写真という記録媒体もあります。現代では、ビデオや携帯電話の映像記録などが、時代の証言者としての事件を記録するものとなっています。とはいうものの、それは、何をとるかが明確であるからできることなのです。写真にしても、必要な情景をフレームに入れることができなければ、何も残らないのです。これは記録です。しかし、記憶は違います。万が一気づいていなくても、振り返ってみれば「そういえば、そうだった」という時間の巻き戻しが可能なのです。ただ
し、曖昧な部分も多く、記憶違いや間違いなど、正確さの部分では、今ひとつ写真や文書記録にはかないません。
みなさんの家庭には、写真アルバムがあると思います。現在では、すべてデジタル化されて分厚い紙表紙を持つアルバムは、どんどんと姿を消しています。今残っているのは学校の卒業アルバムか家族写真がほとんどですが、人物の背景になっている街や家の様子などが、後に街の移り変わりを語る時代の証言者となっていることがあります。しかしこれらの写真が撮影された当時には、意識されていなかったことなのです。
それでは、写真が一般的でなかった頃、つまりは明治・大正時代の事件はどのように伝えられてきたのでしょうか。写真と同様にありありとイメージを抱くことができるものは「絵」です。文章だけより、ちょっとした挿絵があった方がより具体的に理解できるものです。錦絵(にしきえ)などは今でいう新聞の報道写真のような役割を果たしていました。絵には、写真と違った特性があります。写真は撮影した時が限定されます。その時、その瞬間、その場が記録されるのです。それは事実の反映としては正確なものです。ところが絵は、四角い紙のなかに、時間の経過も描き込めるし、そのときの音声、雰囲気も同時に伝えることができます。声は文字で記されるのですが、人物の絵との相乗効果で、声として認識できるのです。また、鈴などの器物を描くことで、それがゆれている表現から、音を連想することもできるのです。
現在では、ビデオが一般化して、人の動きがまるまる記録できるようになりました。つまり、人の身振りが動きとともに記録されているのです。私たちは、人の身振りがどんどんと変わってきていることにあまり気がついていません。それも日常なのですが、明治時代と現在では、人は歩き方ひとつとっても、かなり変わってきているのです。その身振りを写真に留めるには、あるポーズをさせて、じっとさせ、動きを止めて撮影する必要がありました。実際の明治時代の写真はとても不自然でした。それに比べて絵画は、特異な身振りを強調して、自然に描くことができます。これも特徴でしょう。