平成24年7月3日(火) ~9月30日(日)
比恵遺跡群第125次調査の掘立柱建物と柵 |
1.官家を那津のほとりに建てよ
―考古学からみた「那津官家」とその周辺―
『日本書紀』宣化(せんか)元年(536)条に「修造官家、那津之口(官家(みやけ)を那津(なのつ)の口(ほとり)に修(つく)り造(た)てよ)」との記述があります。「ミヤケ」とは律令制以前のヤマト政権による直轄領のことで、「屯倉(みやけ) 」と「官家(みやけ)」という表記の違いに見られるように、稲を納める倉に田地とその耕作民が付属したヤマト政権の経済的基盤(=屯倉)であるとともに、政治的・軍事的支配拠点(=官家)でもあったとされます。この宣化元年に博多湾岸に設置されたミヤケを通称「那津官家(なのつのみやけ)」と呼んでいます。
「那津官家」は磐井(いわい)の乱以後のヤマト政権による九州の支配過程を示すものとして、また、律令制下の大宰府の起源として、文献史学の研究者によって様々な観点から言及されていますが、いまなお史料の史実性、位置づけをめぐって議論があります。
この「那津官家」に考古学的な光が当てられたのは、博多区博多駅南にある比恵(ひえ)遺跡群で6~7世紀の大型建物跡や柵列(さくれつ)が発見されたことによります。その後、早良区有田(ありた)遺跡群でも類似する建物群が発見され、その時期と遺構の特殊性から「那津官家」に関連する遺構ではないかと推測されたのです。
しかし、柵や建物跡からは遺物の出土が乏しく、考古学的に年代を決めるのが難しいことや、有田遺跡群の一本柱柵列が6世紀前半に遡る可能性があるものの、比恵・有田の三本柱柵列や建物跡からの出土遺物は、6世紀後半~7世紀前半が大半で、536年に遡らないものが多いなどの問題があり、「那津官家」の所在地については、考古学の側からもまだ確証が得られていません。
今年の4月に報道された比恵遺跡群125次調査の三本柱柵列と建物群は隣接する8.72次調査とは方向が異なることが明らかになりました。三本柱柵列の性格や継続時期などについては、今後の考古学的な検討が望まれます。
また、比恵遺跡群の南方に東光寺剣塚(とうこうじけんづか)古墳という前方後円墳があります。発掘の結果、墳丘長75m、三重の周溝をもつ、6世紀前半~中頃に築かれた福岡平野で最大級の古墳と分かりました。また、畿内系の技法をもつ埴輪や、石屋形という筑後や肥前に例の多い遺骸安置施設をもつなどの特徴があり、東光寺剣塚古墳は、「那津官家」にかかわる人物の墓だった可能性があります。