平成24年7月3日(火) ~9月30日(日)
那珂遺跡群第114次調査の方形区画溝 |
2.裴世清、筑紫に滞在する
―隋書倭国伝の世界―
589年、長らく南北に分裂していた中国大陸が隋(ずい)によって統一されます。百済(くだら)と新羅(しらぎ)は素早くこれに対応し、隋に献使します。倭国も600年に遣隋使を送りますが不調に終わり、自らの政務や儀礼の形態が国際社会で通用しないことを知らされます。これを受けて厩戸皇子(うまやとのおうじ)と蘇我馬子(そがのうまこ)らにより国内改革が進められ、607年、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として派遣されます。高句麗(こうくり)と隋との関係悪化もあってこの遣隋使は成功し、同年4月、小野妹子は隋使裴世清(はいせいせい)を伴って筑紫(つくし)に帰り、6月15日に難波津(なにわのつ)に到着します。筑紫到着から2ヶ月間の裴世清一行の動向は不明ですが、那津官家のある筑紫に留まっていた可能性があります。隋の正史である『隋書』の「倭国伝」には隋の人間がみた倭国の習俗が記されていますが、阿蘇山など九州関連の記述があり、裴世清一行が筑紫で見聞したことが含まれているのかもしれません。
6世紀末から7世紀前半の時期で考古学的に注目すべきは那珂(なか)遺跡群です。114次調査から6世紀末頃に掘削された方形区画溝が発見されています。この溝が西側の23次調査の溝まで続くとすると、一辺90mで、溝の周辺に建物群が配置された、那珂遺跡群における中心的な大規模遺構となります。そのほかにも那珂遺跡群周辺からは食器の一括廃棄遺構や水田跡など、『隋書倭国伝』にみえる倭人の暮らしを彷彿とさせる遺物・遺構が多数発見されています。
3.斉明天皇の筑紫遷宮
―「長津宮」前後の博多湾岸―
博多湾岸は遣隋使・遣唐使の玄関口とという役割ともに、来目皇子(くめのみこ)の2万5千の兵を率いた駐屯(ちゅうとん)などにみられるような、海外派兵の兵站(へいたん)基地としての役割も継続して持ち続けました。
660年の百済滅亡を受け、斉明(さいめい)天皇は、その復興支援のため自ら筑紫に赴き直接指揮をとることを決意します。661年、斉明天皇は娜大津(なのおおつ)に到着し、磐瀬行宮(いわせのかりみや)を長津宮(ながつのみや)と改称します。斉明天皇が朝倉宮(あさくらのみや)で死去した後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が約2ヶ月間長津宮で指揮をとりました。長津宮の所在地は文献史学では那津官家と同所とする説や異論があります。
7世紀中頃から後半の博多湾岸の遺跡をみると、那珂遺跡群では方形区画溝がこの時期まで存続し、百済系の瓦を葺(ふ)いた建物や、南北に方位をとる官衙(かんが)的な建物群が新たに出現します。また、博多遺跡群でもこの時期から遺構が増加します。新羅や高句麗、近畿地方などで作られた土器が出土するなど、博多遺跡群は国際的な様相を呈しています。「長津宮」の場所は未だ不明ですが、今後の考古学的発見に期待がかかります。
663年、倭の百済救援軍は白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍と戦い大敗を喫します。これにより海外からの脅威に直接さらされることなり、防衛のため対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑紫に防人(さきもり)や烽(とぶひ)(のろし)を置き、筑紫に水城(みずき)を築きます。現在の場所に大宰府が置かれたのもこの頃とされます。
また、福岡城内で7世紀後半頃の建物や新羅土器が発見され、「筑紫館(つくしのむろつみ)」―後の鴻臚館(こうろかん)がここに建てられたことが明らかになってきています。激変する東アジア情勢の中、日本が律令国家へと変貌していくとともに、博多湾岸も急速にその姿を変えていったのです。 (赤坂亨)