平成24年8月14日(火) ~10月21日(日)
主要な道だけを描いた福岡城下図(資料3) |
はじめに
現在、私たちが使う道路は主に「道路交通法」という法律によって規制されています。この法律が成立したのは昭和35(1960)年のこと。「交通戦争」という言葉に象徴される自動車の急激な増加がその背景にあります。これ以前にも、道に関する法律は人力車(じんりきしゃ)や馬車、自転車といった新たな交通手段が登場する度に改正されてきました。
それでは、主な交通手段が徒歩であった江戸時代、人々と道路との関係はどのようなものだったのでしょうか。今回は、東は石堂(いしどう)川、西は室見(むろみ)川に挟まれた、いわゆる「福岡城下」と呼ばれる範囲に絞って江戸時代の道について紹介します。
1、城下の道は見通しが悪い
筑前国(ちくぜんのくに)(現福岡県の一部)の領主である黒田長政(くろだながまさ)は、慶長(けいちょう)6(1601)年から7年の歳月をかけて福岡城を築きました。現状の地形を生かして(資料1)、旧来からある博多の西側に横長の城下町「福岡」を新たに誕生させたわけですが、軍事都市としての性格上、街路の見通しは制限されました(資料2)。中央区天神の西鉄グランドホテル前のクランクした道はその痕跡(こんせき)の一つです。
また、江戸時代には、全国的に街道の整備が進みます。福岡城下には「唐津(からつ)街道」と「日田(ひた)街道」が通り、メインストリートという意味で「通筋(とおりすじ)」などと呼ばれました。絵図上でも朱線で示されており(資料3)、「魚町辻(うおのまちつじ)」(現中央区平和台通交差点付近)が街道の起点とされました(資料4)。ただ、道幅は街道だからといって特別に広いわけではなく、町人地だと三間(約6m)、武家地だと五間(約10m)というように、町の性格によって異なっていたようです(「正保福博惣図」)。
博多の木戸門(資料15) |
2、道には門がある
領主にとって城下の治安維持と防火対策は重要な関心事でした。その対策として城下の道に置かれたのが門と番所です(資料10)。福岡側については「六ヶ所御門(ろっかしょごもん)」と呼ばれる6つの門(東取入口(ひがしとりいりぐち)(枡形(ますがた))北門・同南門・数馬(かずま)(春吉(はるよし))門・薬院(やくいん)門・赤坂(あかさか)門・黒(くろ)門)が、博多側については北側に「石堂口(いしどうぐち)門」、東側に「辻堂口(つじのどうぐち)門」が置かれ、人とモノの往来をチェックする装置となりました。
さらに博多についてはこの二つの門以外にも町ごとに門が置かれていました(「博多津要録」(以下「津要録」)巻一三、資料14・15)。これらの門は寛保(かんぽう)元年(1741)に博多の外側に位置する門一八ヶ所を残して廃止され、明和(めいわ)年間(1764~71)には全て取り払われたと言われていますが、当時の城下の治安を考える上で興味深い道路上の施設です。