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No.407

企画展示室4

比恵(ひえ)・那珂(なか) モノがたり

平成24年8月14日(火) ~12月27日(木)

森を切り拓く弥生時代
 縄文時代から弥生時代へと時代が移り変わる頃になると、比恵・那珂が広がる丘陵周辺の低位な場所に小さな集落がぽつりぽつりと形成され始めます。人々は水場に近い場所に集落を形成する一方で、食料を保管する貯蔵穴(ちょぞうけつ)は水気を避けるため丘陵の高い場所につくりました。注目されるのは那珂南西側では二重に環濠(かんごう)が巡る集落が出現したことです。この環濠は、最古の農村として有名な板付遺跡の環濠より先行するものと考えられており日本でも最古級の環濠とされています。のちに北部九州から全国に広がった環濠集落という暮らしの方法を、朝鮮半島から最初に取り入れたのは比恵・那珂に住む人々だったのです。
 前期から中期にかけては、河川の沖積作用が増大したため低湿地が拡大しはじめました。この頃、比恵・那珂の人々は丘陵を覆っていた照葉樹林の森を切り開いて集落の拡張をはじめます。発掘調査では半分に折れたり、刃が欠けた石斧が大量に発見されます。これらはたくさんの樹木が伐採されたことを示すモノであり、弥生人が開発を行った証拠でもあります。集落が大きくなると同時に墓地が各所で作られるようになります。前期には山王遺跡で土壙墓・木棺墓群、中期初頭~前半には比恵北側を中心として甕棺墓が、中期中頃~後期には那珂北側に甕棺墓が集中する傾向がみられます。
 弥生時代の埋葬遺構が多く見つかる比恵・那珂ですが、墓に銅鏡を副葬するような有力者の存在を示す例は発見されていません。比恵で発見された甕棺墓には唯一、細形銅剣(ほそがたどうけん)が副葬されていました。この銅剣の出土は集団を統率する実力者が存在していたことを示すとともに、この頃の奴国内での比恵・那珂の立場や役割を教えてくれるモノでもあります。
 弥生時代中期以降、比恵・那珂を代表する遺構として数百もの井戸が掘られます。県内で発見された井戸の半分以上が比恵・那珂に集中していることは、比恵・那珂に多くの人々が集まり暮らしていたことを示唆してくれます。また、これらの井戸には祭祀(さいし)に用いられたとされる彩色土器などが繰り返し投げ入れられていることがよくあります。井戸の集中する様子やそこから発見される様々な資料は、比恵・那珂に暮らす弥生人達の姿をモノ語ってくれるのです。

赤彩線刻画木製品(比恵遺跡群第54 次出土)
赤彩線刻画木製品
(比恵遺跡群第54 次出土)

奴国の副都心として
 比恵・那珂に住む人々の活動が一気に盛んになるのは弥生時代中期後半以降で、後期には丘陵のほとんどの場所で開発が行われたようです。土壌に含まれる花粉の分析から、この時期に伐採が一気に進んで植生が変化したことが読み取れます。中期後半に掘られた大溝(おおみぞ)は、丘陵内部を縦横に走り、多くの労働力を用いて集落を拡大させていったことが分かります。また、各所で大型の掘立柱建物が造営されるなど、丘陵が徐々に開発され、眺望が開けていく様子も明らかとなりました。比恵北東側の沖積地には中期中頃~後期にかけての大規模な水田(東比恵三丁目遺跡)が開発され、比恵・那珂に住む人々の生活を支えていました。
 この時期の奴国の拠点は、春日市の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)を中心とする大集落にありました。舶載(はくさい)された鏡を大量に副葬する「王墓(おうぼ)」が発見された須玖岡本遺跡は、奴国の政治と祭祀の中核でした。その周辺で発見された大量の青銅器鋳型や工房跡の発見は、弥生の青銅器工業団地とも称されています。比恵・那珂では「王墓」こそ発見されていませんが、須玖岡本遺跡群に並ぶほど多様な遺構と多彩な遺物をもつ遺跡であり、比恵・那珂は奴国の副都心であったと言えます。

比恵・那珂への首都移転か
弥生時代の後期後半以降も比恵・那珂の発展は続き、古墳時代となっても丘陵の大がかりな開発は絶えることなく行われました。そして集落の拡大だけではなく新しい要素もみられます。古墳時代初頭には首長墓(しゅちょうぼ)として、福岡平野最初の前方後円墳である「那珂八幡古墳」が那珂中央部に築造されました。そして弥生時代の終わり頃から古墳時代はじめ頃には比恵・那珂を縦走する並列溝(へいれつみぞ)がつくられました。全長1.5㎞以上も延びるこの並列溝は、その形状から両側に側溝をもつ道路である可能性が考えられています。道路沿いには規格的な配置を持って方形周溝墓群(ほうけいしゅうこうぼぐん)が並ぶように築造されました。他国から交易のために比恵・那珂を訪れた人々は、この「道路」沿いに立ち並ぶ古墳や方形周溝墓群をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。
 弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃、比恵・那珂が発展する一方で、先の須玖岡本遺跡群を中心とする地区では遺構が減少することが報告されています。このことは「奴国」の中心が比恵・那珂に移ったことを示しており、奴国の首都が移転したとも言えます。奴国内でも主要な位置を占めるようになった比恵・那珂には、倭国内の各地域や朝鮮半島の土器等の様々なモノが持ち込まれました。この時期前後に北部九州へと伝播した土器が比恵・那珂を介して九州各地に広がっていったとする研究もあり、比恵・那珂を拠点とした広範囲の交易ルートが確立されていたことが分かります。

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