平成24年10月16日(火) ~12月16日(日)
1 福岡城・筥崎宮・香椎宮・志賀島( 『西遊雑記』) |
天明(てんめい)3(1783)年、福岡にやってきた岡山の地理学者古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は、その紀行文『西遊雑記(さいゆうざっき)』(図 1)のなかで、筑前は北に向(むか)ふ国にして、朝鮮国と相対し、陽(よう)をうしろとせる国なれども、いかゞの地理にや風土至(いたり)てよく、上国(じょうこく)といふべし。博多より僅(わずか)なる橋を以て隔(へだて)とし、町つづきにして、双方(福岡と博多)の市中、凡(およそ)を云(いう)一万二千軒、人物言語もあしからずして、諸品自由はんじやう(繁盛)の所なりと書いています。いつの世も、他人(ひと)の評価は気になるものですが、古松軒は、博多・福岡のことを北に向いているが風土は良い、人物言語も悪しからず、諸品も自由繁盛の所だと、地理学者らしい鋭い観察と具体的な数字をあげて評価しています。 展覧会では、『西遊雑記』をベースに、各種の紀行文で博多・福岡はどうみられていたのかを紹介します。
古川古松軒(ふるかわこしょうけん)(1726ー1807年)
江戸時代中期の地理学者。名は辰、正辰、字は子曜、通称平次兵衛(へいじぺえ)。備中国下道郡新本村(しもみちぐんしんぽんむら)(現岡山県総社市)生まれ。天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781‐1801)に全国各地を旅行し、多くの紀行文や見聞記を著しました。天明3(1783)年に、山陽路から九州を周回した紀行文『西遊雑記(さいゆうざっき)』、4年後の天明7(1787)年に幕府巡見使(じゅんけんし)に随行し、東北地方から松前(まつまえ)付近の蝦夷地(えぞち)(現北海道)まで巡行した『東遊雑記(とうゆうざっき)』が有名です。実地踏査に徹した古松軒の紀行文からは、地理学者としての鋭い観察力を読み取ることができます。
西遊雑記(さいゆうざっき)
古松軒58歳の天明(てんめい)3(1783)年3月から9月の半年間にわたって、単独で山陽路から九州を一周した時の紀行文。郷里をたって、広島を経て下関に至り、九州東海岸を南下して薩摩に入り、そこから九州西海岸を北上して熊本、佐賀、長崎におもむき、有田、唐津、太宰府を通り、福岡・博多を経て、下関に到着、船に乗り郷里にもどりました。地理学者として、各地の風俗、地理、人物、言語、暮らしぶりや都市の様子などを記録した、江戸時代を代表する紀行文です。『日本庶民生活史料集成』第2巻に収録されています。