平成24年10月16日(火) ~12月16日(日)
2 筑前筥崎( 『西海奇勝』) |
1 名所・旧跡の移り変わり
室町時代の飯尾宗●(いいおそうぎ) 『筑紫道記(つくしみちのき)』、江戸時代の『西遊雑記』、昭和前期の絵葉書『福博名所』を見比べてみると、旅人が訪れる博多・福岡の名所・旧跡は時代とともに変化していることがよくわかります。
そのなかで、変わらずに名所・旧跡として受け継がれているのは、筥崎宮(はこざきぐう)や名島(なじま)の帆柱石(ほばしらいし)です。香椎潟(かしいがた)は、『万葉集』に「朝菜摘みてむ」と詠まれた情景が、『筑紫道記』、『西遊雑記』のなかで取り上げられ、また、松本清張の推理小説『点と線』( 昭和32・1957年) では心中事件現場の香椎海岸の風景描写に、この『万葉集』の和歌が引用されています。
当時、一般に公開されていない軍事施設の福岡城、宗教施設である聖福寺(しょうふくじ)や崇福寺(そうふくじ)などが見学の対象になっていないのは当然でしょう。
2 博多と福岡のちがい
『西遊雑記』のなかで、「博多の地は古き湊にて、むかしは蛮船(ばんせん)・唐船(とうせん)着岸し、九州第一の湊なりし故に、古跡所も数多にて、名所の古歌も多し…福岡の地は慶長(けいちょう)以来の所にて、名所旧跡と称すべきはなしと云ふ」と、古松軒は聞き取りから、博多と福岡の名所旧跡の違いを対比的に記しています。『西遊雑記』が書かれた江戸中期の時期でも、前代のことが鮮やかに記憶されていることは重要なことです。
この博多と福岡の対比は、同じく菱屋平七(ひしやへいしち)『筑紫紀行』(享和(きょうわ)2・1802年)やオランダ海軍士官カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』( 安政(あんせい)5・1858年)の記述のなかにも見ることができます。
3 『西遊雑記』の眼
ここでは、江戸時代を代表する紀行文『西遊雑記』のなかから、博多と福岡に関するおもしろい、トピック的な記事をいくつか紹介しましょう。
博多湾の水深は浅くて大船は入港できないこと、海の中道の砂州(図2)は天の橋立におとらぬ絶景であること、海の中道と志賀島間の砂道は冬期には道が切れて舟路となり、夏季には砂が集まって道になること、神功皇后(じんぐうこうごう)の軍船の帆柱という伝承がある名島帆柱石(図3)は、木の珍しい「化石」であるという見解、筥崎宮伏敵門(ふくてきもん)(図4)に掲げられている「敵国降伏」の大額は古いものではないという評価など、古松軒はいずれも興味深い観察を行っています。
(林 文 理)
> | |
>3 名島帆柱石( 『筑前名所図会』) | >4 筑前 筥崎八幡宮( 『聖地史蹟名勝』) |