平成24年10月23日(火) ~12月24日(月・祝)
4 福岡図巻(筥崎宮部分) |
はじめに
大正時代から昭和時代のはじめ頃、鉄道など交通網の整備が進み、長距離の移動が容易になったことから、観光ブームが到来しました。日本各地では周辺の観光地や交通機関などを描いた、観光案内用の鳥瞰図(ちょうかんず)がさかんに作られました。福岡市でも「大正の広重(ひろしげ)」と呼ばれた吉田初三郎(よしだはつさぶろう)が描いた「博多観光鳥瞰図」をはじめ、多くの鳥瞰図が作られました。
今回の展覧会で紹介する「福岡図巻(ふくおかずかん)」は、福岡城の遠景、城下町福岡・博多やその周辺地域の風景が描かれており、さながら江戸時代の観光鳥瞰図とも言える絵巻です。毎年のように部門別展示で展示されているので、実際にご覧になった方もいらっしゃるかも知れません。
今回は、この「福岡図巻」にスポットを当て、江戸時代のいつ頃の景観を描いたものなのか、福岡のどこからどこの地域を描いたものなのかなど、描かれた風景について、関連資料をまじえながら詳しく紹介したいと思います。
4 福岡図巻(荒戸の波戸部分) |
1、描かれた風景はいつの時代か
「福岡図巻」は、江戸時代、福岡藩の藩主であった黒田家(くろだけ)に伝来した絵巻です。作者については、署名や落款(らっかん)がないために、残念ながら詳しいことがわかりません。ただし、黒田家に伝来した点から考えれば、福岡藩の御用絵師やその周辺で作られたものと想定できるかも知れません。
では、「福岡図巻」は、一体、江戸時代のいつ頃の景観を描いたものなのでしょうか。この点を考える場合、荒戸山(あらとやま)の東側に築かれた港の波戸(はと)(中央区港)の形状が最初の手掛かりとなります。
荒戸の波戸は、万治(まんじ)2(1659)年、3代藩主黒田光之(みつゆき)が船の繋留の便を図るため、古くからあった波戸を崩し、新たな波戸を築くように命じたもので、寛文(かんぶん)元(1661)年に完成しました。この時に築かれた波戸は、荒戸山の麓から東に向かって一直線に築かれ、突端には夜間に入港する船のために燈籠堂(とうろうどう)が設けられました。その後、享保(きょうほう)8(1723)年に潮通しのために開口部が設けられ(元文(げんぶん)3(1738)年に閉鎖)、宝暦(ほうれき)5(1755)年には石垣の築足しが行われるなどの改修が加えられましたが、寛政(かんせい)12(1800)年から行われた改修によって形状が大きく変わりました。この時の改修では、突端から東南方向へ新たな波戸が築かれ、波戸全体の形状は鍵型となりました。この改修は享和(きょうわ)元(1801)年に終わり、翌2年には新波戸に住吉神社(すみよしじんじゃ)が勧請されました。
「福岡図巻」に描かれた荒戸の波戸は、東に向かって一直線に突き出た形状をしているので、寛文元年から享和元年の間の波戸を描いたものと推定できます。
さらに博多の町並みに目を向けると、現在の博多川の東岸、新川端町下(しんかわばたまちしも)(博多区下川端町・上川端町)付近に水車が描かれています。「博多津要録(はかたつようろく)」には、宝暦(ほうれき)4(1754)年、鰯町下(いわしまちしも)(博多区須崎町)の油屋市右衛門(あぶらやいちえもん)が、新川端町上(しんかわばたまちかみ)(博多区上川端町)裏側の川に水車小屋の建設を申請し許可されたとの記述があります。実際の場所とは異なりますが、「福岡図巻」の水車は、前述の水車小屋を描いたものと推測され、宝暦4年以降の博多の景観を描いていると考えられます。
以上の点と、その他、描かれた内容を併せて考えると「福岡図巻」は、およそ18世紀頃の景観を描いたものと考えられるのです。