平成24年12月18日(火) ~平成25年3月31日(日)
図1 黒田如水像(史料1) |
図2 朱塗合子形兜・黒糸威胴丸具足(史料2) |
福岡市博物館の重要なコレクションの一つに、旧福岡藩主黒田家に伝来した黒田家資料があります。国宝「金印(きんいん)」や、黒田節でおなじみの名槍「日本号」も黒田家から寄贈を受けたものです。本展では、黒田家資料のなかから福岡藩を開いた藩祖・黒田孝高(よしたか)(図1)と初代藩主・長政親子にゆかりの遺品を紹介します。
黒田家に伝来した名宝を通して、戦国時代を終わらせ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)の天下取りに貢献した孝高・長政父子の活躍振りをたどっていきます。
孝高は、天文15年(1546)、播磨国姫路城(はりまのくにひめじじょう)で誕生しました。通称を官兵衛、出家して如水(じょすい)と号しました。父職隆(もとたか)以来、御着城(ごちゃくじょう)(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職(こでらまさもと)に仕え、姫路城を預かる家老でした。孝高は愛用の合子形兜(ごすなりかぶと)(図2)により戦場では孝高の「赤合子(あかごうす)」と敵に恐れられたと伝えられます。
天正3年(1575)、中国地方を治める毛利輝元(もうりてるもと)に対し、織田信長(おだのぶなが)が西に勢力を広げようとする頃、孝高はいち早く政職に信長に味方するよう献策し、自ら使者となって岐阜城(ぎふじょう)の信長を訪れます。この時、褒美として信長から与えられたのが刀 名物(めいぶつ)「圧切長谷部(へしきりはせべ)」(史料22)です。天正5五年、織田軍の中国攻めが本格的に始まり羽柴(はしば)秀吉が大将として派遣されました。この時、秀吉は「おまえは弟の小一郎(秀長)と同じように心安く思っている」と書いた自筆書状(図3)を孝高に与えています。孝高への期待がいかに大きかったかが分かります。ここから孝高は地方豪族の一家臣の立場から秀吉の軍師として頭角を現していきます。
ところが、翌年、孝高を人生最大の危機が襲います。信長に謀反(むほん)を起こし荒木村重(あらきむらしげ)に翻意(ほんい)を促すため有岡城(ありおかじょう)(兵庫県伊丹(いたみ)市)に赴き、囚(とら)われの身となってしまうのです。この時、家臣たちは起請文(きしょうもん)(図4)を書いて一致団結を誓いました。幽閉は一年の長きに及びましたが、母里(もり)太兵衛ら家臣たちの活躍で奇跡的に救出されました。復帰後、孝高の名軍師振りはますます発揮されます。天正10年、信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれた本能寺(ほんのうじ)の変では、秀吉に天下取りを勧めます。秀・孝高は毛利方の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)(岡山市)攻撃の真っ最中でしたが、毛利方と和睦(わぼく)し、即座に取って返し、山崎(やまさき)の戦いで見事光秀を滅ぼします。世にいう「中国大返し」です。その後も孝高は四国攻め、九州攻めで先鋒を務め、九州平定後の天正15年7月、豊前国(ぶぜんのくに)で六郡を与えられ(図5)、中津城(なかつじょう)(大分県中津市)を築きました。