平成24年12月18日(火) ~平成25年3月31日(日)
秀吉の天下統一の総仕上げとなった小田原(おだわら)攻めでは、北条(ほうじょう)氏に降伏を説得し、その礼として太刀(たち) 名物(めいぶつ)「日光一文字(にっこういちもんじ) 」(史料23)等を北条(ほうじょう)氏から贈られています。
文禄2年(1593)、朝鮮出兵のさなか、孝高に二度目の危機が訪れます。秀吉に無断で朝鮮から肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)(佐賀県唐津市)に帰国したとして秀吉勘気(かんき)を蒙(こうむ)りました。孝高は死を覚悟し、長政に対して跡継ぎや家臣の用法についてこまごま記した自筆の遺言状(ゆいごんじょう)(図6)を与えています。この時、孝高は出家して如水と名乗るようになります。
秀吉没後、慶長5年(1600)の関ヶ原(せきがはら)の戦いでは、長政は徳川家康に従い、調略や本戦での活躍により東軍の勝利に大きく貢献しました。長政は関東から関ヶ原に向かうに際し、家康から豊臣恩顧の大名への目配りを託され南蛮鉢羊歯前立兜(なんばんばちしだまえだてかぶと)(史料5)等を与えられます。一方、孝高は九州にあって、西軍の諸城を切り取り、九州を席巻しました。これらの功績により、長政に筑前国(ちくぜんのくに)が与えられました。孝高・長政父子は、名島城(なじまじょう)(東区)に代えて福崎(ふくさき)の地に新城を築き、先祖の故地・備前福岡(びぜんふくおか)(岡山県瀬戸内市)に因(ちな)んで新たに「福岡」城と名づけたのです。
(堀本一繁)
図4 黒田家家臣連署起請文(史料10) | 図3 羽柴秀吉自筆書状(史料8) |
図6 黒田如水自筆覚書(末尾)(史料17) | 図5 豊臣秀吉知行充行状(史料14) |