平成25年1月5日(土) ~
三角縁神獣鏡 (那珂八幡古墳) |
鋤崎古墳横穴式石室 |
人物埴輪(東光寺剣塚古墳) |
古墳時代
金印から時代が下った弥生時代の終わりから古墳時代の初頭になると、奴国の中心と考えられている春日市の須玖岡本遺跡で遺構が減少します。これに対して博多駅の南の丘陵上に広がる比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡では遺構の範囲が拡大していきます。こうしたことから奴国の中心が比恵・那珂遺跡に移ったとも考えられています。近年の小規模な発掘調査の積み重ねにより遺跡の様子が少しずつ見えてきました。注目される遺構としていくつかの調査地点で見つかった南北に平行して走る溝があげられます。この溝は道の側溝と考えられ、その延長は約1.5㎞におよび、集落の区画、計画性が想定できそうです。福岡で最初の前方後円墳である那珂八幡古墳(なかはちまんこふん)もこの道沿いに築かれました。古墳からは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土しています。那珂八幡古墳以後、比恵・那珂遺跡群に大型の前方後円墳は作られなくなります。それに代わるように作られたのが、西区今宿古墳群の鋤崎(すきざき)古墳と南区の老司(ろうじ)古墳で、どちらも4世紀末から5世紀初め頃の前方後円墳です。埋葬施設に違いがあり、老司古墳は竪穴式石室に横からの入口のみを取り付けた「竪穴系横口式石室(たてあなけいよこぐちしきせきしつ)」であり、鋤崎古墳は横からの入口にさらに墓道を設けた「初期横穴式石室(しょきよこあなしきせきしつ)」です。どちらも古墳に追葬を行えることが特徴で、埋葬施設を密封するという前期古墳のあり方から大きく変化しています。
横穴式石室は5世紀後半頃から畿内をはじめ全国の古墳に採用される埋葬施設で、北部九州型横穴式石室が畿内に先行することは古くから指摘されていましたが、老司古墳と鋤崎古墳の発掘により北部九州には2種類の埋葬施設が併存していたことと、鋤崎古墳が北部九州型の祖型で、日本最古の横穴式石室であることが明らかになりました。
6世紀前半になると再び那珂遺跡群に東光寺剣塚(とうこうじけんづか)古墳という大形の前方後円墳が築かれます。古墳の周囲には三重の溝がめぐっていました。また、溝と溝の間に設けられた「作り出し」とよばれる長方形状に広がった部分からは人物や動物などの形象埴輪が集中して出土し、この場所で埴輪を用いたまつりごとが行われていた様子がうかがえます。
東光寺剣塚古墳北方の比恵遺跡群からは柵と掘立柱建物群が出土し、日本書紀に記述のある「那津官家(なのつのみやけ)」に関連する施設ではないかと考えられています。東光寺剣塚古墳の被葬者もこの「那津官家」に関わりのある人物だったのかもしれません。東光寺剣塚古墳を最後に福岡平周辺から前方後円墳は姿を消します。