平成25年1月5日(土) ~
越州窯系青磁花文碗 (鴻臚館跡) |
鴻臚館跡発掘区航空写真 |
古代
663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍に敗北した日本は水城(みずき)や朝鮮式山城を築いて防御を固めると共に大宰府を四王寺山裾に設置しました。その大宰府で外交を担った施設が鴻臚館(こうろかん)です。その場所は長らく不明でしたが、大正時代に中山平次郎博士が福岡城内説を提唱し、昭和62年の平和台球場の改修工事にともなう発掘によって存在が考古学的に立証されました。
鴻臚館は発掘調査により、谷を挟んで南北2つの建物が存在し、7世紀後半〔Ⅰ期〕、8世紀前半〔Ⅱ期〕、8世紀後半~9世紀前半〔Ⅲ期〕と時期毎に建物や南北を繋ぐ橋が変遷していくことが分かりました。当初、鴻臚館は遣唐使を送り出し新羅や唐からの使いを出迎えることが主な役割でしたが、後に外国からの商人が来訪して交易を行う場へと変化しました。鴻臚館からは交易の実態を伺わせる中国産の越州窯系陶磁器やペルシャ系ガラス・イスラム系陶器なども出土しています。鴻臚館は9世紀後半~11世紀前半〔Ⅳ・Ⅴ期〕には瓦葺きの建物がありましたが、11世紀中頃には廃絶したようです。
墨書陶磁器 (博多遺跡群) |
中世
鴻臚館が交易拠点としての機能を失い終焉を迎えるのと入れ替わるように、博多が歴史の表舞台へと登場しました。11世紀の中頃以降、対外貿易の拠点が鴻臚館とは入り江を挟んで対峙する博多へと移り変わると、白磁や青磁をはじめとする貿易陶磁器や銅銭などが流通の拠点である「博多」を経由して日本各地の消費地へと運ばれていくようになりました。これらの膨大な量の商品は、宋から渡海した宋商人の手によって持ち込まれました。博多綱首(ごうしゅ)とも称された彼らは、博多や箱崎などの博多湾沿い各所に家を構え、唐房(とうぼう)と呼ばれる居住地を拠点として貿易に従事しました。
博多が中世前半期の対外貿易拠点として、他の都市を圧倒していたことは出土する貿易陶磁器の量からも明らかです。それでは、どうして大量の貿易陶磁が出土するのでしょうか。それらは海をはるばる渡ってきた大事な商品ですが、航海中に破損するものもあり、荷揚げ地である博多で選別され、まとめて廃棄されたのです。また、貿易船では複数の商人達の積み荷がまとめて運ばれていたので、それぞれの荷主が分かるように底には名前や記号が墨書(ぼくしょ)されていました。これらの資料は当時、博多で多くの宋商人が活躍していたことを伝え、博多が国際的な都市であったことを示してくれます。
多くの宋商人達が暮らした博多の唐房(とうぼう)は、日本で最初の「チャイナタウン」であり、宋風の生活様式や習慣も持ち込まれていました。聖福寺を開創した栄西が日本に飲み方を伝えた「茶」も、一足早く唐房で嗜(たしな)まれていたことが出土する天目(てんもく)茶碗などから分かります。また、宋商人達は、聖福寺や承天寺といった寺社等の建立にも多くの支援を行いました。これらの寺社の建立は、中世期の博多が国際都市としての役割を発揮する上でも重要な出来事です。また、寺社の領域は周囲の町割りを規制し、都市景観の形成の大きな契機となりました。現在私たちが何気なく見る博多の風景にも、往時の国際都市「博多」の姿が残っているのです。
吉州窯系鉄絵壺 (博多遺跡群) |
おわりに
福岡の地は各時代で欠く事のできない役割を果たしてきました。その痕跡はこれまで見てきたように地下の遺跡にも残されています。弥生時代以来、大陸文化との「接点」として門戸を開き、ここから新しい文化・技術が列島各地へと広がりました。古代・中世の白村江の戦い、元寇などでは「前線」という言葉が当てはまりそうです。また中世の博多は国際色豊かな貿易都市として、アジアに開かれていました。
こうした歴史は出土遺物だけでなく、市内各地の史跡、地名、地形などにも残っています。こうした数々の文化財を福岡の誇りとして伝えて行きたいと思います。
(池田祐司・本田浩二郎・赤坂亨)